石灰石と寒水石

江戸時代の史料に現れる日立市域の石材、石灰石と寒水石かんすいせきについて紹介する。

史料はすべて翻刻されているものからとった。文末に出典を示した。

石灰石

石灰石は、史料にもあるように、砕いて焼き、壁の上塗りに使われる漆喰の原料となる。

坂場流謙の「国用秘録 下」には、近江と美濃での石灰いしばいを焼く窯が円筒形に描かれているが、助川村の「石灰焼キ土釜」は長方形のようである。また焼成方法について4日の短期間で焼上げたものは、商品として不出来であるなどの記述は具体的である。

石灰の生産は、以下のふたつの史料によってみるならば、江戸時代においては、助川村産出の「石灰石」と諏訪・大久保・金沢村から産出する「寒水石」を原料としていることがわかる。

文化6年には、助川村の石灰焼きをめぐり助川村次郎作と江戸「灰方会所」とのあいだで係争が起きている。この争いについての文書6点が「石神組御用留」に記録されている。この争論史料は、長文にわたるので、別途機会があれば紹介しよう。

なお近代に入って、1907年(明治40)に助川に石灰石を原料にセメントを生産する「助川セメント製造所」(現在の日立セメント)が東京の資本によって設立される。助川における石灰とセメント生産との間に関連があるのかどうか興味あるところだが、現時点では把握していない。

「加藤寛斎随筆」

石灰石  介川山中ニアリ、焼テ石灰トス

坂場流謙「国用秘録 下」

  石灰出所之事〈抜粋〉

寒水石

寒水石は今で言う大理石のことで、大理石は岩石学上では結晶質石灰岩ともよばれ、石灰岩がマグマの熱を受けて接触変成作用で再結晶したもので、石材としての石灰岩の一般的な名称である。

日立市域で産出するものは、「石神組御用留」に「御土産に相成候寒水石御花生」(御花生とは今で言う花瓶)とあるように当時多くは加工され美術工芸品となった。『郷土ひたち』41号の表紙には、多賀町の長山家のおそらく「縞寒水石」でつくられた「富士石」の写真が載っている。その写真の解説である水庭久尚「富士石」を参照されたい。

近代の寒水石については「史料 工部美術学校イタリア彫刻教師による諏訪村と真弓村の寒水石調査 1」を参照。

小宮山楓軒「水府志料」

「加藤寛斎随筆」

寒水石  真弓、瀬谷、亀作、大森ヨリ出、潔、白縞ノ二品アリ、白ノ中ニ紺色ノ模様ナルモノ縞寒水ト云、寒水石ト云ハ方言ニテ、瑪瑙石ナルベシ、此品国用ヲナスベキモノ

中山信名『新編常陸国誌』

【寒水石〔縞寒水石亦島〕】久慈郡真弓村ヨリ出、又一種アリ、久慈郡大森瀬谷二村ヨリ出ルヲ縞寒水石ト云、雨夜伽ニ、久慈郡眞弓山ハ麓ヨリ一里余ニシテ山上ニ至ル、山嶮シテ岩石ヲ傳ヒ、權現ノ前ニ出ルニ、五尺七尺三尺程ノ寒水石アリ、絶頂ハ皆岩石ナリ、其上ニ社頭本社拝殿結構ナル荘嚴ナリ、岩城道中記ニ、諏訪ノ水穴ハ太平田ト云處ノ山ノ麓ナリ、太平田ハ諏訪村ノ内ナリ、入口三四間ノ處ハ、漸ク入候様ナルセマキ穴ナリ、夫ヨリ三四間ハ七八畳敷程ノ廣サニテ、上モ高ク水モ深ク腰通リ位ナリ、其上タンタント狭ク、上モ亦ヒクシ、カヽミテ行ニ漸二人立位ナリ、此邊水深ク膝フシ位ナリ、十五間程入先ハ又々穴狭ク見ユ、併水淺ク、底ニ寒水石ノ飛石ノ様ナル見エ候、穴ノ内左右上下共ニイツク迄モ寒水石ナリ

「石神組御用留」

文化6年9月28日の条

先達申達候通リ御土産ニ相成候寒水石御花生、太田九蔵[1]申付、此程大森辺ニ山取致候由之処不宜、御用ニ不相成候由、仍又々諏訪村水元之近辺ニ切取候旨申出候間、其旨御心得可被[   ]此度ハ御見替共二ツ三ツも切取候事ニ付[   ]迄人足指出、右ニ付介川村石切召仕候旨旁申出候間、夫々ニ御達可被成候、勿論委細ハ当人より申出候筈ニ御座候、右ニ付御承知可被成候、以上
  九月廿八日             中村与一左衛門
   加藤孫三郎[2]

[註]

  1. [1]太田九蔵:太田九蔵歳永。水戸藩において代々細工人を務める。
  2. [2]加藤孫三郎:石神組郡奉行

史料・文献