史料 工部省イタリア人彫刻師による諏訪村と真弓村の寒水石調査 1

次に紹介するものは1883年(明治16)に刊行された巨智部忠承『概測 常北地質編』(『理科会粋』第4帙附録 東京大学発行)からぬきだしたものである。

著者の巨智部忠承(こちべ-ただつね)は、明治から大正期の地質学者。1882年(明治15)地質調査所創設とともに技師となり、1893年所長。応用地質学の草分けのひとりで、地質図の作製、鉱床調査や油田開発などを手がける。1927年(昭和2)3月29日死去。74歳(日本人名大辞典)

 原文の片仮名は平仮名にし、適宜読点を入れた。〈 〉と太字は引用者。

  ○建築石材
  〈中略〉
    寒水石
晶灰石、一名寒水石は灰石の一種にして、県下に甲たる良材なり、土佐、阿波、肥後、筑前、長門、備後、武蔵、陸前等の産と同しく細大粒状の晶理を呈して、黝、白、緑、斑、黒色の数種あり、而して美濃赤坂の産に殊なり、此石材徃昔藩治の頃は斑石と共に濫りに採掘するを禁せしを以て天賦の宝庫久しく啓くに由しなかりしも、維新以後弘く公益に供するを得、始めて世人の着目する所となり、其採収の額も従て年一年より多きを加ふるに至る、伊太利国の美術師ガリアルチ氏の言にも茨城縣の大理石は我伊太利有名の大理石と同種にして實に稀世の珍品たり、今試に其黝色及緑斑色なる一二片を携て伊國の人に示すに、日本の産たるを以てせは其人必す信せすして、此は是れ我伊國某地に特産する銘石にして復た他に比類なきものなりといはんとす、則ち其の質の相酷肖せる此の如し、予も亦始めて之を見るに迨んて甚た惑ひ、従来自ら伊国の産を取て世に誇詡したるを愧つと云へり、蓋氏は工部省の命を奉し数々縣下を巡回して其石質を點検し、殊に親く彫刻に試み、悉く其産地を暗記し應答少しも停滞なし、実に余の本文中飾装石材に就て論せるもの氏の説話に取る所少からす、寒水石中専ら建築に限れる所の種固より頗る多く、乃ち博く江湖の見聞する所なれは今一々名状せす、特に其著るき的例を示さば東京常盤橋の如き是なり、又其産地の廣袤性質の善良なるものを追叙せは諏訪第一に居り、助川之に亞き、眞弓、滑川、大塚、横川、神岡、又之に亞く、蓋し神岡村字湯南に産するものは暗色粗粒にして脆軟なれは素より石材とするに足らす、只石灰を焼くに用ふべきのみ、今左に産地を掲けて参観に供す
  真弓山巓石坑 〈略〉
  辨天沢石坑 〈略〉
  助川村北南大峰山石坑
近年陸軍省にて鑿開せられたる北大峰山坑の寒水石は白色又黝白色にして稠密細粒の組織をなし〈中略〉南大峰は数十間南方に突起せる円頂にして此処に陸軍省にて開堀せる石坑あり〈以下略〉
  藤山崎石坑
助川村の西大峰山の西北に新開の石坑あり、字藤山崎と云ふ、石質大峰の産と同一にして較々化石を含むこと多し〈以下略〉
  幕被まくかぶり
幕被山は藤山崎の北半里餘に在り、黝色粟粒状の寒水石にして板状をなさゞれとも脆くして良材に適せす、因て未た開堀に着手するものあらす
  諏訪村寒水石区
諏訪村字大平太より凡一里西方に現出する細粒黝白色の灰石は剥石状をなし、白雲母の片を含みて下等に属する石なり
普賢岩は大平太の西に在り、石坑亦既に開く所なり、白糖状密質にして徃々緑泥石を混するものあり、板状の厚層をなすか故に巨大美良の石材を得へし、第三板は此岸壁を摸写するものなり〈第三板 別掲〉
大平太の東数丁に板状褐色の寒水石あり、裂紋斜角を画して稜角ある大小塊を散在す、石種下等なり〈中略〉
此他概測地域内に晶理灰石を産出するの村数十餘あり、其中或は粗粒にして粧飾に供し難く、或は薄層にして実用に適し難きものあれとも皆自ら石灰の製作に供するに足るものなれは左に其村名を掲けん
成沢村◦美   宮田村◦美  滑川村◦多、美  小木津村   田尻村
小妻村     小中村    君田村      横川村◦多  花園村
大塚村◦多、美  神岡村  八反村
滑川村にては詳細に之を点検せす、大塚村にては字岩崎の地に出るものを見しに、厚き板層をなし、組織細粒白糖状にして真弓山頂のものに肖たり、此地も夙に坑を開くと云ふ、但其質其量南部各村のものに劣れり、横川村大字大金田近傍に産出する石は大約粗粒白色をなれとも亦細粒のものなきに非す、然れとも山間に僻在して運搬の便を闕くを以て取て建築粧飾に用ふるに至らす、独り此地より産する石灰は有名にして各地の所産と共に多く東京に輸送すと云ふ

概測域以外にも寒水石を産するの地多く、且つ良材も乏しからされは左に之を略記すへし、即ち真弓山の東南中央山脈の漸く尽る所の各村に在り
大森村、大久保村、金沢村、下孫村  淡黒寒水石
亀作村、大久保村、大森村、金沢村  糖白寒水石
亀作村、大森村           斑文寒水石
左の一節は前に言う伊国人ガリアルヂ氏の口述する所にして寒水石の品評に係れり
  真弓山白寒水石
真弓山下弁天澤の石坑は開坑法の序次を得さるものなれとも石室は中等の彫像石にして二噸乃至三噸の石材を出すべし、勿論小塊は上等品と雖も猶得難からす、石肌は大抵伊國産の彫像石に譲らす、特に米國ウェルモント州所産のものに勝りて、石坑の所在は海陬を隔ること遠からすして運送に便なれは其業の隆盛期すへきなり、山上亦石坑あり、但地位甚た悪く概ね大気の侵食をうけて、且石質粗粒状なれは開採するも其利益少かるへし、故に速やかに委棄して別に山下数ヶ所に産する良質の石區を開坑せは其益却て多しとせん
  助川村黝色寒水石
北大峰山一名軽澤山〈数澤山ヵ〉の石は黝色堅牢なる裂紋少き良材にして坑法亦宜に適ひ幅五尺長二丈前後の巨材を得る常に難からす南大峰山上のものも略仝種にして亦良材を産す
  諏訪村白寒水石
字普賢に顯露せる白寒水石は上等の彫刻石にして近傍数所にも仝物を見る
〈別掲図〉第三板

ガリアルヂ(トマソ・ガリアルディ Tommaso Gagliardi)は、工部美術学校(1876年[明治9]に設立)の彫刻学教師で、茨城県北部において1879年12月3日から大理石の代用としての寒水石の調査をおこなった。その調査をふまえて1886年(明治19)には工部大学校造家学科1期生の曾禰達蔵が諏訪村屏風ヶ嶽と真弓山を調査している(清水重敦「建築写真と明治の教育」『学問のアルケオロジー』 東京大学創立百二十周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来[第1部])

以上はイタリア人彫刻師ガリアルヂの建築資材としての寒水石評にかかわる記述だが、これとは別に巨智部が「装飾石材」として寒水石にふれた記述を紹介する。

  ○装飾石材
    寒水石
寒水石は県下尤も種類に富めるを以て随て各般の工用に適応するもの甚た多し、陸軍省にては嘗て之を弾薬製造の石臼に用ひられたり、蓋し石質の鑽火せざるに由れり、其供用の広き的例枚挙に遑あらすと雖も就中人の通知するは亀戸天神社前の白牛像、教育博物館門内の石標、常磐村偕楽園噴水の石筒、常磐橋の柱等なり、側かに聞く皇城の新築にも多く此石材を供用せられんとすと、又本県に於ては現に之を大小の方形標柱等に切断して海外適宜の地に輸出するの企あり、若し之を米国に輸送せは伊国産の石より数等廉価に鬻くも猶利益あるへしと云ふ、実に寒水石は最上の彫刻材にして伊国の工術を以て名を宇内に縦々にするも蓋し此石を産するに由るとす、則ち止々に建築装飾の用に適するのみならす石灰質に乏き田畑にはこの屑粉を以て肥料となす可く、又焼て石灰となすの便用等凡そ鉱物中無比の有功品と称すへし

■謝辞:本史料の『概測 常北地質編』については、國府田克彦さんからご教示いただきました。お礼申し上げます。

なお、江戸時代の寒水石に関する史料については、「石灰石と寒水石」を参照。