石炭と川蒸気 — 黎明期の石炭産業(4)—
目次
- 常磐炭の功用
- 利根川・江戸川の蒸気船
- 霞ヶ浦の蒸気船
- 浜名湖の蒸気船
- 附録
常磐炭の功用
明治10年多賀郡小豆畑村産出石炭の「仕向先」
『北茨城市史 下巻』422頁に茨城県多賀郡中妻村聯合村における「明治十年輸出物産表」[1]が紹介されている。その「輸出物産」である板・石炭・藍の3品目の中から石炭をぬきだすと次のとおりである。
明治10年 多賀郡小豆畑村産出石炭の移出 | |||
数量 | 仕向先 |
輸送方法 | 産出地 |
---|---|---|---|
473,380斤 | 東京 | 磯原川岸ヲ出帆シ太平洋ニ出テ日本橋ニ至ル | 小豆畑村 |
151,100斤 | 下総 | 磯原川岸ヲ出帆シ太平洋ニ出テ銚子港ニ至ル | 小豆畑村 |
73,200斤 | 遠江 | 磯原川岸ヲ出帆シ太平洋ニ出テ浜松ヨリ入ル | 小豆畑村 |
産出地 中妻村聯合村は多賀郡中妻・下相田・車・上小津田・下小津田・小豆畑村の6ヶ村からなる[2]。明治10年において石炭を産出しているのは、このなかでも小豆畑村に限られている。
仕向先 この小豆畑村産石炭の仕向先(送り先)は東京は日本橋、下総は銚子、遠江は浜松とある。いずれも用途は示していない。
東京では蒸気船の燃料として用いられていることは推測できる。
下総・遠江での用途を『北茨城市史』は「製塩燃料として使用された」と根拠を示さずに言う[3]。
下総において製塩が行われているのは、東京湾に面した行徳浜とその周辺地域である。銚子港に荷揚げして、行徳に利根川の水運を利用して行徳(千葉県市川市)に送る、ということは考えられるが、この時期、石炭輸送においては内川廻しでなく、大廻しが主流である(こちら 石炭と幕府蒸気船 において示したように)。外房ではどうか。ごくわずかである[4]。
遠江は浜松に送っている。浜松では小規模ながら製塩はなされている[5]。しかしその量は、明治末において多賀郡の25%ほどである[6]。
以上の点から下総銚子と遠江浜松での利用を製塩燃料に限定するには根拠が弱い。であるなら、製塩以外の利用とは。
明治14年 石炭の功用 蒸汽船ノ焼品
上記の「明治十年輸出物産表」には石炭の用途の記述はない。だが、4年後、明治14年の多賀郡中妻村聯合6ヶ村における石炭採掘状況取調書上[7]に坑業人の6人は「功用」欄に「汽船運転ノ用ニ具ス」「汽船等ノ用供」「蒸汽船ノ焼品ナリ」「蒸汽船ノ焼品」「汽船ノ用具」「諸汽船ノ焼用ニ具ス」と記す。すべて蒸気船の燃料をあげている(厳密に言えば「汽船等」とするものが一人いるが)。
明治15年 石炭の功用 海陸蒸気
明治15年の「多賀郡産出石炭景況」[8]に
性質功用:海陸蒸気ハ勿論、酒造蒸米或ハ万ノ煮物又ハ水風呂等ノ焚料ニ用ルモノ追々増加セリ
とある、酒造以下の用途は「追々増加」しており、今後の需要が見込まれると、希望的観測を述べているに過ぎず、「海陸蒸気」つまり蒸気船と蒸気機関車の燃料が主たる用途であると言っているのである。
「海陸の蒸気」とは。海の蒸気とは説明は不要であろう。ここでの陸の蒸気とは、明治5年に開通した新橋・横浜間の鉄道蒸気機関車のことであろうか[9]。日本橋から2km余南に明治5年に横浜駅とを結ぶ新橋停車場が開設されており、そこには石炭庫があった。横浜から国府津(神奈川県小田原)まで東海道線が延伸するのは明治20年7月のことだが、この日本初の鉄道への燃料としての石炭を供給していたのかもしれない。
[註]
- [1]明治11年「(中妻村聯合)諸願進達綴」
- [2]『北茨城市史 下巻』p.46。明治17年8月時には、内野・臼場の2ヶ村が加わっている(『北茨城市史 下巻』p.59)
- [3]『北茨城市史 下巻』p.423
- [4]明治末の数値であるが外房の生産量は茨城県多賀郡の1%にも届かない(専売局『製塩地整理事蹟報告』1912年 塩事業センター>塩業資料室)。
- [5]浜名郡宇布見村と山崎村。いずれも現浜松市中央区雄踏町
- [6]『製塩地整理事蹟報告』
- [7]「明治14年 諸願進達綴(中妻村聯合戸長役場)」(『北茨城市史別巻3 石炭史料1』p.107所収)
- [8]『茨城県勧業雑誌 第六号』(『茨城県史料 近代産業編2』p.222所収)
- [9]陸上における蒸気機関として紡績業や製糸業における機械の動力源としての蒸気機関が考えられるば、その普及は明治20年代以後のことである。
利根川・江戸川の蒸気船
江戸川から利根川へ
明治2年、利根川と江戸川筋での川蒸気船営業が東京府により許可される[10]。
明治4年2月、東京深川萬年橋に利根川丸会社設立され、萬年橋(江東区清澄)–小名木川–新川–江戸川–関宿(千葉県野田市・埼玉県幸手市)–利根川–栗橋(埼玉県久喜市)に川蒸気飛脚船「利根川丸」が就航する[11]。
明治11年には、内国通運会社[12]が設立され、東京–小名木川–新川–江戸川–武州妻沼(埼玉県熊谷市)に第一通運丸(明治11年1月製造)が就航する[13]。
この東京を起点とする川蒸気への燃料として、東京へ向けた小豆畑村の石炭が利用されたことは考えられる。
- [10]増田広実「移行期の交通・運輸事情」『交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察』
- [11]『江戸川区史 第3巻』p.242
- [12]内国通運会社:明治7年(1874)1月以来、諸道の人馬継立網の再編を進めて来た陸運元会社は、その整備に伴って同8年2月、社名を内国通運会社と変更した。その結果同社は、従来の運送請負業のほか、新たに組織した継立所によって貨客の継立業にも従事し、また東海道・中山道の馬車営業や、利根川汽船業にも進出した(『国史大辞典』)。株式会社となるのは、明治26年商法改正による(『内国通運株式会社発達史』)。
- [13]『江戸川区史 第3巻』p.242
下利根川
銚子河口の水深は満潮時11尺、干潮時8、9尺にすぎない。そのため銚子港には江戸時代から150石積以下しか入ることができなかった。そのため明治以降、大型船舶の普及につれ、奥羽地方の諸物資や廻米は外洋を通過して寄港することは少なくなった。そこで明治7年、萬年橋と栗橋間に就航していた利根川丸が回航されたのが下利根川の蒸気船通航のはじまりである[14]。

(銚子市デジタルアーカイブより)
その一方、明治10年代、利根川筋の船主たちは競って蒸気船を購入し、営業を始めた。我孫子・取手から河口までの下利根川に銚港丸・信義丸[15]・銚浦丸、西北浦の豊通丸・高浜丸・開運丸・大吉丸[16]などが、貨客の争奪戦を繰り広げた。しかし、その乱立が共倒れの危機を招きかねない状態となり、明治14年12月に合同で銚子汽船会社を設立し、翌年1月に営業を開始した。これが外輪の蒸気船第一銚子丸で、銚子–木下(千葉県印西市)間を隔日で運航した。明治15年4月には第二銚子丸が就航し、銚子–木下間を毎日運航した[17]。さらに明治16年8月、銚子丸は銚子–三堀(野田市三ツ堀)間を運行するようになる[18]。
利根運河 利根川と江戸川を結ぶ目的で、江戸川の深井新田(流山市)から利根川の船戸(柏市)までの利根運河8.5kmが明治23年完成し、26年に蒸気船が通航するようになり、28年には東京から利根川下流の銚子まで直行便も運行するようになった[19]。このことは、それまでは利根川を銚子方面から遡り、関宿から江戸川に直接入る船はなかった、その逆もなかった。できなかったということである。理由は江戸川と利根川の分岐点付近に浅瀬があり、そのため対岸の境河岸で荷を卸し、江戸川の関宿河岸まで渡し船で荷を運んでいた。それが利根運河により銚子・東京間が直航できるようになったといことである。
- [14]『銚子市史』第五章>第三節>一、利根汽船の開航
- [15]信義丸:所有者は印旛郡竹袋村〈印西市 利根川〉山口コン、明治8〜17年運行(木下まち育て塾「木下の蒸気船概要」https://kioroshimachijuku.web.fc2.com/
murakoshi/joukisen.pdf 2025年7月27日閲覧)。 - [16]大吉丸:明治9年4月横浜製造、4噸、布佐(我孫子市 利根川〉〜鉾田(北浦 茨城県)間運行(「布佐・中峠の蒸気船」『我孫子市史研究センター会報』第9号)
- [17]『銚子市史』p.625。江戸川区郷土資料室『通運丸と江戸川の水運』
- [18]『江戸川区史 第3巻』
- [19]江戸川区郷土資料室「解説シート 通運丸」

潮来付近の通運丸(水路をゆく・第二運河>一番好きな通運丸
http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1297.html より 2025年7月27日閲覧)
霞ヶ浦の蒸気船
明治12年頃には霞ヶ浦の小川河岸(茨城県小美玉市)や高浜(石岡市)に数多くの蒸気船が就航し[20]、その後明治15年5月、内国通運会社の第四通運丸が東京〜高浜間に航路を開設した[21]
明治21年には、銚子汽船会社の銚子丸が北浦に、23年末高浜〜銚子間、24年に土浦〜銚子間に蒸気船が就航した。明治28年銚子汽船と内国通運は同盟航路を設け、土浦〜鹿島・佐原(香取市)・銚子・江戸崎(稲敷市)の4航路を開いた[22]。
蒸気船は大正期以降の鉄道及びバスの開通まで霞ヶ浦周辺地域における物資や人員の輸送を担った。
- [20][21]美浦村史編さん委員会『美浦村誌』
- [22]土浦市史編さん委員会『土浦市史』
浜名湖の蒸気船
『浜松市史』及びいくつかの文献[23]によって、浜名湖における蒸気船の導入経過を年表によって示す。航路は浜松城下と新所東方村(静岡県湖西市)間。
明治4年 | 浜松城下と浜名湖をを結ぶ堀留運河*完成(文久3年浜松藩から許可、慶応元年工事着手)
*堀留運河 浜松城下上新町(浜松市菅原町)〜明神野川 1.5km |
明治5年 | 新所村〜浜松航路開設(和船) |
明治9年1月 | 伊藤安七郎(新所東方村)が2トンの蒸気船(通運丸)購入、就航。航路は浜松宿堀留〜新所村日ノ岡(湖西市) |
明治15年 | 伊藤安七郎、蒸気船3隻増強 |
明治22年7月 | 東海道線新橋と神戸間開通 「汽船による交通は下火となり、蒸気船もいつのまにか浜名湖から姿を消してしまった」[24] |
『浜松市史 三』は蒸気船の燃料について「舷側に設けた水車を薪の燃料によって回転させ走航させるもの」とする。この記述の根拠とされる『湖西近代百年史年表』には「薪」の記述はない。どうしたことであろう。この点から浜名湖における蒸気船の燃料が石炭であったことは否定しない。というより、『浜松市史 三』のこの部分の執筆者は幕末期からの蒸気船の燃料としての石炭を想定できずに、従来からの燃料といえば薪、から逃れられなかったのではないか。
- [23]湖西文化研究協議会『湖西近代百年史年表』、浜松市『浜松市史 三』、新居関所史料館『特別展 蒸気船現る 近代浜名湖交通のあゆみ』
- [24]『蒸気船現る』
附録
1 明治16・17年 多賀郡小豆畑村産出石炭の移出
明治18年の中妻村聯合戸長役場「願進達」に収められた明治16年と17年の「輸出物産表」から石炭をぬきだす[25]。わずか一年で大きく変わるものである。
明治16年 | |||
数量 | 仕向先 |
沿道町村ノ大略 | 産出地名 |
---|---|---|---|
473,380斤 | 東京 | 磯原川岸ヲ出帆シ太平洋ニ出テ日本橋ニ至ル | 小豆畑村 |
151,100斤 | 下総 | 磯原川岸ヲ出帆シ太平洋ニ出テ銚子港ニ至ル | 小豆畑村 |
73,200斤 | 遠江 | 磯原川岸ヲ出帆シ太平洋ニ出テ浜松ヨリ入ル | 小豆畑村 |
明治17年 | |||
数量 | 仕向先 |
沿道町村ノ大略 | 産出地名 |
2,138,300斤 | 東京 | – | 小豆畑村 |
45駄 | 仙臺 | 磯原河岸ヲ出帆シ、太平洋ヲ北行シテ石ノ巻ヨリ入ル | 小豆畑村 |
- [25]『北茨城市史 別巻3 石炭史料1』p.113所収
東京・下総・遠江へ送った数量及びその他の記事は、冒頭で示した「明治十年輸出物産表」の数値と同一である。さらにその他の板・藍も同一数字である。偶然なのか。後の機会に原本との照合を果たしたい。
2 明治13年 茨城県における石炭採掘状況
この表は「明治13年 茨城県坑業一覧表」[26]より作成した。ここに記載されたものは、茨城県全体のもので、多賀郡の小豆畑村・大塚村・上小津田村(以上、北茨城市)と上手綱村(高萩市)4ヶ村において、借区開坑者が設定されているものの、実際に採掘しているのは小豆畑村の2件のみである。
産地 | 多賀郡小豆畑村 字車置外1ヶ所 |
同郡同村 字オボコ沢 |
同郡大塚村 字田作山外1ヶ所 |
同郡上小津田村 字阿吹山 |
借区坪数 | 1800坪 | 5000坪 | 1060坪 | 1000坪 |
借区税 | 1円80銭 | 5円 | 1円 6銭 | 1円 |
開坑年月 | 4年10月 | 6年12月 | 7年1月 | 7年1月 |
堀出高 | 14万 500斤 | 24万2800斤 | – | – |
製品高 | – | – | – | – |
売高 | 9万斤 | 24万2800斤 | – | – |
代価 | 126円45銭 | 164円24銭 | – | – |
入費 | 105円37銭5厘 | 139円52銭 | – | – |
人名 | 東茨城郡竹原村 長谷川兵吉 |
多賀郡上小津田村 神永喜八 |
東茨城郡細谷村 松信義路 |
多賀郡平潟村 武子市兵衛 |
産地 | 同郡小豆畑村 字東ノ巣 |
同郡同村 字小滝 |
同郡同村 字椎木平 |
同郡上手綱村 字釈迦堂 |
借区坪数 | 1000坪 | 400坪 | 500坪 | 450坪 |
借区税 | 1円 | 40銭 | 50銭 | 37銭5厘 |
開坑年月 | 9年3月 | 9年3月 | 9年3月 | 13年3月 |
堀出高 | – | – | – | – |
製品高 | – | – | – | – |
売高 | – | – | – | – |
代価 | – | – | – | – |
入費 | – | – | – | – |
人名 | 福島県 佐藤保信 |
多賀郡小豆畑村 永山文衛門 |
同郡同村 山形雄次郎 |
同郡中妻村 滑川敬三 |
- [26]『茨城県勧業年報 第一回 明治14年』(『茨城県史料 近代産業編2』 所収)より石炭を抽出した。
3 明治24年 工業の進歩と常磐炭の需要
明治24年、農商務省地質調査所技師である大塚専一は常磐の炭田地区を調査し、常磐炭の需要について次のよう報告する[27]。
工業ノ進歩スルニ従ヒ、石炭ノ需用日ニ月ニ増加シ、当時其需用愈頻繁ナラントス、邦内ニ在テ今其需用ニ応スルモノヲ見ルニ、北ニ北海道アリ、南ニ九州ノ煤田アリト雖トモ、各東京ヲ南北ニ隔タル遠キヲ以テ、炭価廉ナルヲ得ス、故ニ炭質稍ヤ下ルモ京地ニ接近シ、運輸便ニシテ之ニ応セントスルモノハ阿武隈山系東邊ノ煤田ナリ
- [27]「常磐東岸煤田調査報文」『地質要報 明治二十四年 第1号』(東京地学協会 1891年])