石炭と幕府蒸気船 黎明期の石炭産業(3)

島崎和夫

目次

はじめに

本稿で用いる史料は水戸領中山氏「石炭御用留」である。この史料を用いた研究には、鷺松四郎「松岡領における石炭採掘について—水戸藩の政策と中山家の炭山経営を中心として—」(『茨城史林』第3号 1974年1月)がある。その後、この史料は北茨城市史編さん委員会により「松岡中山氏石炭御用留」として『北茨城市史 別巻3 石炭史料Ⅰ』(1990年3月)に翻刻された。

今回あらためて『北茨城市史 別巻3』に収録された「石炭御用留」と未収録の「慶応四年 石炭御用留」をあわせて、こちら 史料 水戸藩中山氏石炭御用留 に翻刻した。

本稿では史料に即して中山氏知行地の松岡地方から産出される石炭の幕府軍艦所納入までの輸送問題にしぼって紹介する。

史料について

記録時期:慶応2年(1866)11月〜慶応4年3月

記録者:松岡吟味所掛り及び吟味方。吟味所及び吟味方は主として財政分野を統括する。なかでも吟味方の高橋善衛門が記録者ではないだろうか。本文の書風、体裁は統一されており、一人の人物の記録のように思える。

内容:この「石炭御用留」はきわめて詳細である。その理由は、幕府へ納入する石炭を「御手産」としたからである。他の地域では採掘から輸送、販売までを民間が行ない、領主は利益に税を賦課する。だが中山氏は、生産(採掘)から軍艦所への納入までを直接管理下におき、軍艦所との交渉、採掘地・採掘者・問屋の選定、そして利益の配分までも中山氏が決定する。それが「御手産」の意味するところである。

原本:茨城県立歴史館所蔵「高橋キヨ家文書」132・1879

中山氏と松岡領

水戸藩附家老中山氏は、駿府の徳川家康に仕えて小姓となり、慶長12年(1607)家康の命によって、家康の11男頼房の傅(かしつき 守役・後見)となった信吉を初代とする。頼房が常陸国下妻から水戸に移封となると、1万5千石の知行地を与えられ、水戸藩の附家老となった。子孫は代々附家老職を継ぎ、やがて2万5千石となる。

松岡というのは、江戸初期において多賀郡下手綱村(高萩市)の別称であった。この村に当初戸沢氏が城を構えていたところから戸沢氏の城地を松岡と言った。享和3年(1803)中山氏が下手綱村を中心として29ヶ村7新田に知行地を設定されると、下手綱村に館を築き、水戸藩から一定度のこの地の支配権を有するようになる。

これらの地域は現在の茨城県北部、高萩市全域と北茨城市の南部地域である。以下、この中山氏が支配する地域を本稿では松岡領と称する。

なお、慶応4年正月24日、中山氏は維新政府から大名に取り立てられ、松岡藩と称するようになる。

開港と幕府蒸気船

嘉永6年(1853)6月3日、ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊4隻(内蒸気船が2隻)が浦賀に入港する。その翌年3月、日米和親条約を締結、下田・箱館の2港を開く。その後、安政5年(1858)6月以降、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間で次々と修好通商条約を結び、翌安政6年6月幕府は神奈川(横浜)・長崎・箱館を開港し、五ヶ国との自由貿易を許可する。その貿易港に蒸気船が立ち寄るのである。

幕府が取得した蒸気船の第一号は、安政2年(1855)オランダから寄贈された軍艦スームビング号(観光丸)である。その後、オランダ・アメリカ・イギリスから購入する。とりわけ文久2年(1862)以降急速に数を増やし、慶応4年(1868)までに幕府の蒸気船は軍艦9隻、運輸船27隻にのぼった。薩摩藩以下諸藩の蒸気船は慶応4年までに59隻にのぼった[1]

蒸気船の燃料は石炭である。その供給の一部を担ったのが、松岡領を含む常陸国多賀郡北部から陸奥国磐城郡にかけての地であった。

[註]

    • [1]坂本賢三「幕末期輸入船とその主機」『日本舶用機関学会誌』18巻6号 1983年

幕府からの石炭注文

慶応元年(1865)水戸領北部、附家老中山氏の領地において、石炭を採掘して中山家の家計に資そうと計画された。そこで石炭採掘を願い出ていた常陸国多賀郡木皿村(北茨城市)の中山家郷士であった柴田早之助[2]に試掘を命じ、翌慶応2年の春から同郡大塚村(北茨城市)字西明寺の山中の石炭産出地を委ね、柴田に「仕事師」を抱えさせ、採掘を開始した〈第1条〉

ところが、石炭を採掘したものの売れず、保管しているだけだったが、その後、幕府軍艦所[3]から注文があり、商人を介さず、中山家から直接納めることになった、と牛込にある中山氏の江戸屋敷から中山氏の国家老で石炭御用掛りの松村平大夫宛に通知があった〈第2条〉

石炭之儀… 公辺御軍艦方御用分ニ御買上、商人之手不相渡 御家ゟ直納ニ相成候様江戸表ニて御扱ニ相成候

この幕府からの注文のいきさつは、慶応2年春、中山氏江戸屋敷太田新衛門が松岡に下ったおり、見本として石炭を小箱一箱に入れ江戸へ持ち帰り、軍艦所に持参したところ、係の者から「随分上品」であるので、九分方は買上げることになるだろう。だが買上げと決まって「万一下品」を納入したとなれば「直様御断」りになるので、「品を御吟味之上」納入するよう言われていたのである〈慶応2年12月19日の条〉

    • [2]柴田早之介:多賀郡木皿村(北茨城市)の中山氏郷士。石岡村庄屋。慶応3年(1867)3月、中山氏「石炭御手産世話方」。文政元年(1818)川尻村金成家生れ。木皿村の中山氏郷士柴田治郎衛門養子。明治21年没、69歳。維新後、稲作と改名。養蚕、蜜柑栽培、海産物加工などを手がける。大津に移住し五浦港を開発(『多賀郡郷土史』『北茨城市史 下巻』)。
    • [3]軍艦所・軍艦方:軍艦操練所のこと。安政4年(1857)閏5月、築地の講武所構内に軍艦教授所(軍艦操練教授所・海軍教授所とも)開設。のち軍艦操練所(軍艦所と略されることもあり)。軍艦操練所は幕府職制の慣例で「軍艦方」とよばれた。安政4年7月19日付で授業開始。教育のみならず行政、軍艦運用と海軍に属する全ての事項を司る。慶応2年7月、軍艦操練所は海軍所と改称。慶応3年、浜御殿(浜離宮 中央区)へ移転。
       本稿では本史料で表記される回数の多い軍艦所に表記を統一して説明する。
       なお、慶応2年末の幕府海軍の役職には、海軍総裁–海軍奉行–海軍奉行並–軍艦奉行–軍艦奉行並–軍艦頭–軍艦役–軍艦頭取があった(神谷大介『幕末期軍事技術の基盤形成—砲術・海軍・地域—』p.201)。

幕府からの注文の背景

元治2年(慶応元 1865)正月、幕府勘定奉行・軍艦奉行等は連名で老中に「蒸気御船遣石炭掘取方其外見込之趣取調申上候書付」と題する文書を提出した[4]。幕府の蒸気船燃料である石炭の入手が困難になってきおり、その対策を提言したのでる。

軍艦所の蒸気船の航海に用いる石炭は、これまで江戸の商人が持っているものを買上げてきた。その量は増える一方で、常時百万斤を貯えておかねばならず、購入経費がかさみ始めた。そこで文久2年(1862)になって山元から直接買い上げようとしたが、それは一時的な措置であって、かついろいろと不都合が生じ、とりやめとなっていた。

商人たちは「相互に利潤を競ひ、銘々開港場(横浜・長崎・箱館)え持出し、外国船へ売捌」いている。その量は国内向けの十倍にのぼり、「利潤は悉皆姦商共之所得」になってしまっていると勘定奉行らはとらえた。かつ「御国内出産之石炭、猥に外国人え高価に売渡し候より、御船(幕府蒸気船)遣も夫につれ高直」となっている。そこで勘定奉行らは種々対策を考える。

御料并知行所等より出産之石炭、譬は常州辺より出候品にて、右山は百姓持山に候とも、石炭出産中は直に御手山に被仰付候はゝ、御勘定所持と致し、其場所に候石炭掘取切候迄は、同所役々之内差出し置、相当之賃銀差遣し候積にて、村方等より人足雇揚、堀取方致し、最寄河岸場え石炭置場補理、右え為持込置、御軍艦所に於て石炭入用之節は、其段直に其所詰合之御勘定方等え申達し、御軍艦所附御船、或は廻船等にて江戸表え積廻し候積

たとえば常陸国の幕府領・旗本領から産出する石炭は、百姓持山であっても「御手山」、勘定所管理とし、相当の賃金をもって村において人足を雇い、近くの河岸へ置き場をつくり貯炭させる。そして軍艦所が石炭を必要とした時に軍艦所附属する船を派遣し、江戸へ運ぶ。

この他さまざまに提案するが、しかしこれらの「石炭供給計画」は実現することはなかったという[4]

    • [4]「蒸気御船遣石炭掘取方其外見込之趣取調申上候書付」 神谷大介『幕末期軍事技術の基盤形成—砲術・海軍・地域—』p.330所収。この史料は 史料 水戸藩中山氏石炭御用留 に附録として収録した。

御試み石炭献納

中山氏江戸屋敷の太田新衛門外1名の慶応2年11月29日付書状が、松岡の松村平大夫[5]宛に届いた〈慶応2年12月9日の条〉

軍艦所から「御試ミ」として百俵差し出すよう指示があったが、石炭は他国にもあり、品質競争となる。とりあえず二三十俵を献上し、いいものであったなら今後多くの注文をうけられる。ついては江戸深川の信濃屋和助の河岸まで積み送られたい。万一不採用となれば、送ってもらった石炭は損失となるが、おそらくは採用となるはずである、と。

それからまもなく、太田新衛門らの12月9日付書状が松村平大夫宛に届いた〈慶応2年12月14日の条〉。催促である。随分と性急である。

少々も早舟為御指登之儀、精々御達御座候様致度申迄も無之、右様之儀ハその度ヲはつし候而者御出来ニ相成候儀も不成就ニ相成候姿、くれぐれ早々御廻させニ致度、いかゝ敷儀を得御意候様ニハ候得とも今に着船無之、此表ニおゐてハ日々心配相待候間、此度之御答江者幾日濱下ケ大凡幾日頃此表参着と申見込迄申出候様御達ニ致度、定積出より此表之運送等諸雑費之儀等ニて御取扱方御因循ニも可有之候得とも、初発御払損位之御見通ニ御取扱ニハいかゝ御座候哉、弥御買上と相成場合ニ至候ハヽ此表ニいくらも金主ハ御座候間、右等之処ハ御察、返スがえすも早行御廻させニ相成候様致度候

この時機を逃してしまうとできることもできなくなる、くれぐれも早く石炭を送ってほしい。まだ江戸に着船なく、当方では日々心待ちしているので浜下げ、江戸到着の見込みを知らせてほしい。運送費など諸経費に困っているのなら、最初は損失覚悟で臨んでほしい。幕府買い上げとなれば、江戸においていくらでも金主、資金提供者は現われるので、早く送ってほしい、という内容であった。

その五日後の12月19日に太田新衛門らの14日付書状が届く。太田らは軍艦奉行に呼び出され、石炭は献納でなく、当面15俵を相応の価格で買い上げ、試し焚きするので、早急に届けよ、との指示を受けた、というのである〈慶応2年12月19日の条〉

    • [5]松村平大夫:石炭御用掛り〈慶応2年11月25日の条〉。慶応3年2月に隠居〈慶応3年2月19日の条〉

第一船滝吉丸は難破

12月20日、幕府軍艦所御用石炭の採掘を中山氏から委ねられていた柴田早之介は、滝吉丸(所属不明)を雇い、積込みを終え、磯原を出帆させた〈慶応2年12月21日の条〉。送り状によれば、極上選品78俵、並上品22俵、あわせて100俵(3俵で1石)を磯原の河岸問屋野口彦六から浦賀(神奈川県横須賀市 江戸湾廻船を取締る浦賀奉行が配置)で艀に積替えて江戸深川東平野町(江東区)信濃屋和助の河岸にあてて送りだした。運賃は金9両2分、内前金3両を積立所である磯原浜の問屋野口彦六が滝吉丸沖船頭に支払った。残金は到着次第船頭へ渡して欲しい、と積立問屋の野口が荷揚所となる信濃屋和助に求めた〈慶応2年12月21日の条〉

ところが、出帆して二日後の22日、天候が悪化し、磯原を出た船は川尻沖(多賀郡 日立市)で停泊していたものの、夜に入って高浪により破船してしまった。積荷は海中に投棄され、乗組員3人が溺死するといういたましい事故となった〈慶応2年12月24日の条〉

翌慶応3年正月11日、破船事故の報に接した太田新衛門らの松村平大夫にあてた正月6日付書状が届く。3人の遺体が見つかっていないことに困惑し、代りの石炭の積み送りは延期することを了承し、「其前も水戸廻り御城米会瀬沖荷ニて難船ニ及候由…昨年は兎角海上不宜事と相見、漁業等ハ大不漁之由…」と江戸の太田らは海上輸送の困難さに理解を示した〈慶応3年正月11日の条〉

かわりに駄送

この破船の件は暮の30日に軍艦所に報告したところ、軍艦所からは以下のような指示があったと言う〈慶応3年正月11日の条〉

海上之儀無拠次第ニ候得共、少シも早様御納ニ致度、可相成ハ拾俵程馬之背ニなりとも為御送ニ相成間敷哉と申聞も御座候由、箱入抔ニ致シ為御登之事ニ相成間敷哉及御相談、若左様ニも相成候ハヽ拾俵丈ケニ宜候間速ニ為御登ニ致度

難船は仕方がないことだが、できるだけ早く石炭がほしい。できるなら馬の背で10俵分を運べないか、と軍艦所から提案された。そして太田新衛門は箱に入れて駄送できないかと相談をもちかけてきたのである。

そこで正月23日、石炭10俵分を箱14箱に入れ、馬7駄にて送り出した。江戸まで駄送である。六日後の29日、この石炭を海軍所に納めたところ、買い上げと決まり、いそぎ1万俵を江戸へ送ることになった〈慶応3年2月19日の条〉

第二の採掘地と世話方

1万俵を軍艦所に納めることになって、その準備が始まった。良質の石炭を新たに採掘できる地の調査が行われ、多賀郡石岡村観音柵(北茨城市中郷町)は「随分上品有之様ニ相分候」場所と判明した〈慶応3年2月23日の条〉。そして石岡村観音柵での採掘に庄屋で郷士の大塚吉次郎[6]を柴田早之介同様に「石炭御手産世話方」に任じた〈慶応3年3月8日の条〉

また採掘した石炭が雨に濡れ、品質の低下を防ぐための保管施設として磯原浜に蔵はあったが、それでは不足するとして、柴田早之介から山元に「家根付小屋」の設置願いが出され、認められた。1万俵の準備が着々と進む。

    • [6]大塚吉次郎:多賀郡石岡村(北茨城市)の中山氏郷士(『高萩市史 上』p.512–513 折込表)。大塚村の名主〈慶応3年9月5日の条〉。明治15年(1882)大塚村足田内に開坑(明治15年「坑業一覧表」『茨城県勧業年報 第三回』)

江戸の商人たち

松岡領に産出する石炭の輸送に深くかかわる江戸の商人について紹介する。

信濃屋和助

信濃屋和助について、(1)慶応2年11月29日中山氏江戸屋敷からの内状(達)に「此表深川信濃屋和助と申ものゝ河岸向ケ積送候様御達ニ致度御座候」〈慶応2年12月9日の条〉 とあり、(2)さらに慶応2年12月26日の江戸屋敷太田新衛門らからの「御用状」に「…都⼀式御受負申上度旨、深川東平野町家持信濃屋和助ゟ願申出…」〈慶応3年1月3日の条〉とある。そして(3)竹木炭薪問屋・材木問屋である[7]。そういえば、信濃屋和助が店を構える深川東平野町(江東区平野二丁目)は木場町で材木問屋が集まる地域である。

松岡屋栄吉

松岡屋栄吉は本所林町五丁目(墨田区立川3丁目)に住む〈慶応3年5月5日の条〉

慶応3年正月28日、江戸の松岡屋栄吉が松岡領下手綱にやってきて、石炭御用掛りの松村平大夫ほか関係者を訪れた。それ以前、松岡屋は中山氏江戸屋敷で「石炭之御世話」をしたいと申し出て、ゆるされていた。そして2月1日松岡屋は木皿村の石炭山を見分し、柴田早之助とともに中山家中高橋善衛門[8]宅を訪れ、「委細引受方、直段等相談」を行ない、2月3日江戸に発った。これ以後、松岡屋は石炭の海上輸送を世話することになる〈慶応3年1月28日の条〉

慶応3年6月16日、松岡屋栄吉使虎吉が江戸から松岡に下ってきた。用件は幕府の蒸気輸送船行速丸が松岡領石炭の運搬のためこの15日に出帆の予定で、その石炭積込みに立会うことであった。この虎吉は松岡滞在中、「松岡屋之実家」綱屋文蔵宅に宿泊していた〈6月16・17日の条〉。綱屋文蔵宅の位置を示す文言はないが、下手綱村である可能性は高く、松岡屋栄吉は松岡領出身者であるに違いない。

なお松岡屋栄吉は明治2年(1869)当時、本所四丁目に地借し、材木仲買を商売とし、本所三ツ目組に所属した[9]。本所三ツ目組とは深川を中心とする仲買商人によって編成された九ヶ所組合のひとつである[10]

慶応3年5月の松岡屋栄吉が磯原浜野口彦六にあてた「空船送り状」に「江戸深川木場 信濃屋和助」の次に「取扱人 松岡屋栄吉」とある〈慶応3年5月19日の条〉。これらから材木仲買商人松岡屋栄吉は材木問屋信濃屋和助の下で活動していたことがわかる。

輸送船の手配

信濃屋和助と松岡屋栄吉の主たる業務は石炭運搬船の手配である。一例をあげると「信濃屋和助⽅ニて房州⽩濱六兵衛船と申船相雇、⾦弐拾五両前渡致シ置候」〈慶応3年4月21日の条〉とあるように、輸送船の確保とその前渡金の提供である。

軍艦所が1万俵買上げとなって急ぎ納入しなければならなくなったが、その輸送にあたっては軍艦所の船を使うことを願うことを太田新衛門は考えていたが、当面、1艘は廻船御用達の加納治郎作に依頼してはどうかと、松岡屋栄吉が言うので、中山氏江戸屋敷は交渉をまかせたところ、加納が言うには、この時期、船の運賃値上げの話合いがなされており、加納が扱う廻船の運賃も2割5分値上がりしており、中山家が定める運賃で運ぶことは難しい、との返答であった。船の確保ができずに石炭輸送が延び延びになってしまった〈慶応3年3月6日の条〉

そこで松岡屋が考えたのが、平潟湊[11]である。平潟の廻船問屋安満屋の手船(所有船)があると聞いている。また平潟から江戸へ戻る船もあろう。それらを使えないだろうか。その手配のため信濃屋和助の熟練手代を派遣しようと、松岡屋は提案する。しかしこの季節、2月から3月中旬までは「海上不宜時節」とのことなので、それ以降に戻り船などへ積込むことはできるであろう、と江戸屋敷は伝えてきた。

この江戸屋敷からの指示を受けて、松岡では「早速平潟安満屋等船有之方」へ依頼することとなった。同時に、磯原と高戸村の船庄屋に対し、幕府納め石炭の積出しが終わらないうちは「一切脇合之石炭積立無用」と達した〈慶応3年3月6日の条〉

3月13日、石炭積立見廻りと山見廻り役の小林渓蔵をもって平潟の安満屋半兵衛へ廻船の手配を依頼すると、安満屋はこの時期江戸に上る船はないが、遠からず入津するであろう、と了承した〈慶応3年3月13日の条〉

輸送船順徳丸の手配

石炭輸送のため信濃屋和助は霊岸島塩町(東京都中央区新川1丁目)丸屋十蔵の手配で安房国柏崎浦(千葉県館山市沼)の水主6人乗組330石積み順徳丸を雇った。和助はその前金(前運賃)として金66両を支払った。輸送の条件として、柏崎をただちに出帆し、途中立寄ることなく積所である磯原へ向い、外の荷物を併せて積むことはしない、と。そして信濃屋は磯原の問屋野口に宛てて、船が着いたら直ちに石炭の積込みをされたい、と「空船送り状」を送った〈慶応3年5月19日の条〉

松岡屋栄吉使虎吉の仕事

慶応3年6月16日に松岡にやって来ていた松岡屋栄吉使虎吉はその後、陸奥国菊多郡九面浜[12]の鍵屋梅吉の大栄丸を雇い、7月3日に大栄丸を磯原へ向かわせ、石炭を積むこととした。その話に接した松岡の役人は「蒸気船相廻候も指支無之」ならば、積ませてもよいだろうとし、大塚山産石炭1400俵を300俵あたり36両の運賃で江戸信濃屋和助宛へ送り出した。運賃前渡金40両は「積所」すなわち問屋野口又太郎が渡した。

さらに虎吉は九面で江戸深川兵助の妙法丸を雇い、「御軍艦御用分」として大塚山産550俵を積込ませ7月8日に江戸の信濃屋へ送った〈慶応3年7月2・8日の条〉

虎吉は蒸気船への石炭積込みの立会いにやってきたのだが、「日々相待居候得とも」蒸気船はやってこなかった。それは品川沖で蒸気釜が破損し、修理中であったからである。しかも「大破」ですぐには修理が終りそうもなく、当分の間磯原にはやってこないとの情報だった。そこで虎吉は一旦江戸へ帰り、蒸気船の様子を調べ、その上であれこれ手立てを考えることとした。しかし虎吉は江戸への道中費用に困り、松岡の役所から江戸に着いたらすぐさま返す約定で3両を借り出し、7月9日に出立した。このとき、松岡屋栄吉に相談事があるとして綱屋文太も虎吉に同行し江戸に向かった〈慶応3年7月9日の条〉

    • [7]群馬県立文書館所蔵「売渡し申立木証文之事」(文久元年5月 関善平家文書)・「売渡申材木証文之事」(文久2年11月 神保忠史家文書)及び『江戸商家・商人名データ総覧』(第4巻)による。『総覧』によれば、信濃屋和助は万延元年(1860)11月、深川木場材木問屋仲間に加入を許され、文久元年(1861)10月、竹木炭薪問屋に加入し、元治元年(1864)11月に地借から家持となったものの、和助は直後に亡くなり、その子が倅雄次郎が跡を継いだ。この雄次郎も和助を名乗ったのであろう。
    • [8]高橋善衛門:吟味役(元治元年10月時点)、中山氏郡奉行(慶応4年8月15日から)・国産方瀬戸掛・石炭御用掛を勤める(鷺松四郎「松岡領における石炭採掘について」)。「石炭御御用留」は表紙にあるように「吟味所掛り」すなわち、高橋善衛門が記録したものである。
    • [9]田中康雄編『江戸商家・商人名データ総覧』(2010年)
    • [10]江東区深川江戸資料館「木場の問屋商人」(2004年)
    • [11]平潟湊:棚倉藩領。慶応2年10月、藩主松平の武蔵川越移封により川越領。東廻海運の寄港地として発展。天保年間に廻船問屋は18軒を数えた。本史料に登場する安満屋・油屋・板屋が石炭輸送の一翼を担っている。
    • [12]九面浜:いわき市。寛保2年(1742)以降棚倉藩領。平潟湊の北に接するように立地し、ともに棚倉藩の廻米積出港として発展し、多くの物資を扱い、廻船問屋があった。

第二船高戸村日和丸の荷は内川廻し

3月17日、江戸から松岡屋栄吉が松岡役所に下ってきた。松岡屋は岩城への所用の帰路立ち寄ったのである。彼が松岡役所(高橋善衛門)に言うには、石炭輸送を依頼しようと昨16日平潟に立ち寄って、つきあいのある者に相談したところ、平潟の者が言うには、船頭たちは石炭を運ぶのを嫌っており、平潟湊所属の船への依頼は難しいと。であるなら先づ1艘は松岡領高戸村に所属する船で銚子まで輸送し、銚子から「内川為登」、つまり銚子で川船に積替え、下利根川をのぼらせ、江戸へ送れないだろうかと提案した。あれこれ話すうち、高戸村の船は小船ではあるが、大廻しもできようが、小船では諸経費が余分に掛り、引きあわないと平潟の者は言う。であるなら諸経費は引受けるので、高戸浜の小船に廻漕させたい、と松岡屋は考えた。

そこで松岡役所に申し出たのである。松岡役所はこの提案を容れ、その夜、高戸村の船庄屋を呼び、「公辺御納御用石炭之儀ニ付何分船主とも申付、右様為積立候様相達」したところ、船庄屋は「御用之儀奉畏候旨何れ明日ニも海上日和次第磯原濱船相廻させ候様可仕旨御受」と了承し、積込みの際に運賃の半額を粮米分として借りたいと、申し出た。

このとき、松岡役所は高戸村の船庄屋に銚子までの運賃を尋ねた。100石(1石3俵)で23両との答えであった。船庄屋からは先日他から同様の条件で石炭輸送を25両で頼まれたことがあって、今回は御用なので了承しましょう、江戸までなら36、37両ぐらいになるが、との返事であった〈慶応3年3月17日の条〉

こうして幕府軍艦所向け第2船の石炭は磯原浜から平潟浜廻船問屋油屋善次郎へ廻送され、4月4日、高戸浜の日和丸に石炭150俵(50石)が積まれ、平潟湊を銚子湊へ向けて出帆した〈慶応3年4月1日の条〉。運賃12両、内5両を積立て所である野口河岸が用意し、銚子湊広屋武左衛門[13]を経由して信濃屋に向けて発送された。銚子湊からは川船に積替えられた。なお銚子で川船に積込んで下利根川をさかのぼるのだが、銚子湊から江戸までの輸送経路と運賃の記述はない。

    • [13]銚子湊広屋武左衛門:気仙問屋。東北地方の廻米をのぞく商荷物を扱う問屋を銚子では気仙問屋と称した。松前藩や水戸藩などの国産物も御用荷物と称してこの問屋が取り扱った。安政5年(1858)、広屋武左衛門が気仙問屋として確認できる(船杉力修ほか「港町銚子の機能とその変容—荒野地区を中心として—」『歴史地理学調査報告』8号 1998年)

第三船高戸村豊吉丸一件

慶応3年3月27日、江戸の松岡屋栄吉が平潟へ出向き、豊吉丸という船と石炭を輸送する約束を取り付けた。300俵を積みたいので、松岡役所へ石炭の手配を願いたいと言ってきた。役所は受け入れた〈慶応3年3月27日の条〉

石炭は翌3月28日に磯原の野口又太郎から平潟の油屋善次郎へ廻送された〈慶応3年4月1日の条〉

この豊吉丸は日和丸と同様に高戸村の船で、4月6日に平潟湊で石炭290俵を積んで出帆した。ところが出帆の二日後の4日、時化にあい、一部を荷打ちし、房州浦に避難、停泊して時化をやり過ごしていた。江戸へは向かえず、4月30日銚子湊に入津した。このことを銚子の気仙問屋広屋武左衛門が「荷打調書」を添えて飛脚をもって知らせてきた。広屋は日和丸の銚子での荷継ぎ問屋を務めていることもあって知らせてきたのであろう。「荷打調書」によれば、積載していた290俵の内168俵を「海中捨り」、122俵が残った〈慶応3年5月5日の条〉

なお、豊吉丸はこの時、石炭の他に「商用板類」も積み合わせていたが、これらも荷打ちされた。

残った122俵はどう処置されたか、記録はない。しかし〈慶応3年5月19日の条〉にある江戸中山氏の江戸吟味所「石炭積船着之覚」によれば、5月10日に豊吉丸の石炭「(ママ)百弐拾弐俵」が江戸に届いていることが記載されている。銚子に入津して十日後ことである。銚子から江戸への輸送法・経路は不詳。

順徳丸一件

磯原から江戸へ軍艦御用石炭を運搬するため安房国柏崎浦(千葉県館山市沼)の550石積順徳丸が6月5日江戸を出帆した〈慶応3年6月15・17日の条〉

この順徳丸はひと月ほど前の5月7日に信濃屋和助と雇船の契約をかわし、前金(前運賃)金66両を受けとった。そのときの「信濃屋雇船前金貸渡候受取證文之写」〈慶応3年5月19日の条〉の一部を紹介する。

…書面之通前運賃借用申処実正也、然ル上御当地早々出帆、若又船頭心得違ニて途中滞船一切為致申間敷候、直様御積所相廻シ御荷物積取、外荷物等為積合申間敷候、萬々一不正之筋有之候節我等引受弁金致、貴殿聊御損毛相掛ケ申間敷候

5月7日に「早々出帆」といいながらもひと月が経過した6月5日出帆、その上、乗組員に病人がでて、柏崎に停泊して過ごし、15日になって磯原に到着した。江戸をでて十日。満潮となった夕刻に積立てを始め、翌16日、大塚山産の石炭850俵を積んで磯原を出帆した。そのおり「運賃前貸等此表(磯原)構無之筈」であったが、10両を磯原の河岸問屋野口又太郎が用立てた。理由は信濃屋から渡された前運賃を使い果たし、江戸に帰るための米の入手に困っていたからである。

この順徳丸が江戸に到着し荷の点検を受けたところ、「土石交り悪品多分」であったため「公納」できなかったと連絡が松岡役所に入った。7月26日、原因調査に入った。そこで判明したのは、以前に掘出した石岡産の石炭を磯原河岸野口又太郎の蔵に預けておいた。それをこの春に俵装を仕立て直し、江戸には送らないこととしておいたものの、「人足共心得違」いにより69俵ほどを積んでしまった。出帆後に野口が気付き手綱町の修験宝昌院を通じて詫びを入れたものの、不行届として野口への河岸下げは停止となった〈慶応3年7月26日の条〉

順徳丸に「古石炭」を混入させたとして磯原河岸問屋野口又太郎は石炭取扱を停止させられていたが、手綱町の宝昌院を通じて嘆願書(詫び状)を入れ、それが容認され、再び石炭の取扱いができるようになった〈慶応3年7月29日の条〉

石炭の大名直納は初めて

幕府軍艦所への中山氏領産出の石炭は中山家から「直納」であることは先に触れた通りである。

慶応3年5月19日、江戸屋敷から「石炭積船着之覚」や「公辺納石炭受取書写」など各種書類が届いた〈慶応3年5月19日の条〉

軍艦所納めの石炭は引き続いて到着している。その内660俵は4月29日から5月6日までに海軍所に納めた。当初は一日で済むかと思えたが、俵の作り直しに手間取ったばかりでなく、「御大名ゟ石炭直納之義ハ此度初」めてのことであるので、1俵ごとに重量の改めを行うとの海軍方の指示であった。それでは何かと不都合であるとして、信濃屋や松岡屋を通じて、四、五俵の重量を改め、その平均を以て計測したいと申し出た。規定は1俵16貫。信濃屋の改めによれば13貫に減っているものもあるので、今後はやや多めの1俵17貫で俵装するようとの指示があった。

ともかく660俵を幕府に納めた。他の納入者の石炭と比較して「御家之品至公辺之通り宜敷御座候」、幕府の評判はよろしい、と。

軍艦所への初の「御大名ゟ石炭直納」というのは、「神永喜八の石炭事業」あるいは後述の「片寄平蔵と軍艦所」で紹介するように、多くの場合、採掘人あるいは商人が主体となって納入するのが一般的であったであったからである。

軍艦所納め石炭積立て状況

本史料「石炭御用留」に記された幕府軍艦所納入石炭の浜での積立て状況を表にして示す。

積込日 船名 積立俵数 積立廻船問屋 到着日 記録日
慶応2年
12/20 滝吉丸 100 磯原浜 野口彦六 難破 12/21
慶応3年
4/ 4 高戸浜 日和丸
(銚子まで)
150 磯原浜 野口又太郎 5/10 4/1
4/ 6
高戸浜 豊吉丸
290 平潟湊 油屋善次郎
(磯原浜 野口から積廻し)
5/10 4/1
4/   清徳丸 80 平潟湊 板屋市兵衛 4/24 4/15
4/   (清徳丸) 235 平潟湊 板屋市兵衛) 4/24 4/15
4/16 江戸南新堀 順栄丸 338 九面浜 鍵屋梅吉郎
(磯原浜 野口から積廻し)
4/24 4/19
4/18 権現丸 536 平潟浜 安満屋半兵衛 4/21
5/ 3 房州白浜 福寿丸 800 磯原浜 野口又太郎
6/16 房州柏崎 順徳丸 850 磯原浜 野口又太郎 6/17
6/24 君沢形六番船 550 磯原浜 野口又太郎 6/24
7/3 九面浜 大栄丸 1400 磯原浜 野口又太郎 7/2
7/8 江戸深川 妙法丸 550 磯原浜 野口又太郎 7/9
7/26 江戸泉屋 八幡丸 1300 磯原浜 緑川岱一郎 7/26
7/28 君沢形壱番船 500 磯原浜 緑川岱一郎 7/29
10/ 8 君沢形壱番船 500 磯原浜 緑川岱一郎 10/8
10/20 廻漕方 昇平丸 3000 緑川1500俵・野口1500俵 10/16
11/ 4 上総岩和田 春日丸 750 緑川318俵・野口432俵 11/3
11/ 6 不動丸 1000 緑川528俵・野口472俵
慶応4年
3/14 大栄丸 450 磯原浜 野口又一郎 1/24

到着日がわかる3月28日から4月16日までの積立て5件は、〈慶応3年5月19日の条〉の中山氏江戸吟味所作成の「石炭積船着之覚」に拠る。この記録によれば、合計923俵が江戸に着き、うち660俵が海軍所に納められた。残り263俵は、俵の作り直しなどによる10俵余の減少分であり、また100俵は信濃屋和助が買入れている。

〈慶応3年7月10日の条〉に「石炭是迄積出シ俵数高六千七拾九俵ニ相成」とある。上記表の7月8日までの積込み数を合計すると5,874俵となる。その差は御用留への記載漏れだろうか。

このとき、石炭採掘を任されている柴田早之助と大塚吉次郎は、盆を前にしてさまざまな支払いに支障がでているので、「御下ケ金」を松岡役所へ願い出たところ「立替させ難渋為致候も不宜」と了承され、柴田に100両、大塚に50両が支払われた。さらに磯原村の河岸問屋野口又太郎・緑川岱次郎へも浜下げ駄賃銭として下げ渡された〈慶応3年7月10日の条〉

幕府の船で輸送

蒸気船か洋式帆船

慶応3年5月29日、中山氏江戸屋敷に松岡屋栄吉がやってきて、27日迄に江戸に送られてきた石炭は合計2400俵となったことを伝えながら、信濃屋和助とともに「海漕方」へ蒸気船か君沢形(洋式帆船)を用いて石炭を輸送したいと願い出て了承を得たことを伝えてきた〈慶応3年6月3日の条〉

蒸気船なら500石積み行速丸、二本柱洋式帆船700石積み千秋丸(イギリス人船主から購入)のいずれかであった。行速丸なら6月10日に出帆し、翌日には磯原浜に到着できるであろうと〈慶応3年6月3日の条〉

いずれであっても、着船したらすぐさま積込めるよう良質の石炭を掘り出し、浜下げしておいてほしい、と松岡屋は言う。なお幕府の船の運賃は、100石につき47両2分という。これまでの民間船の実績は35両前後である。

海漕方御船

ところで「海漕方」はこのあと8ヶ所にでてくるのだが、この職名を管見のかぎり幕府組織のなかに見いだせなかった。一方、同音で「廻漕方」が19ヶ所に登場し、海漕方と同様の意味で使われている。そして〈慶応3年6月16日の条〉に「此海漕方ハ御勘定奉行持ニ御座候」とある。

幕府の慶応4年「海軍御用留」[14]の慶応4年正月4日の海軍総裁から勘定奉行と海軍奉行並及び軍艦奉行に宛てた達に「廻漕方持運送船之内、都品川沖碇泊中応援之心得を以非常之節海軍方之指揮ニ応し候様可被致候事」とあるように、廻漕方は勘定奉行支配下にあることがわかる。運送船である行速丸や千秋丸・君沢形は勘定奉行配下の廻漕方に所属していた。このことは「幕府からの注文の背景」の項で紹介した「蒸気御船遣石炭掘取方其外見込之趣取調申上候書付」中の「御軍艦所御預蒸気船御船々」「軍艦所御預り御船々」という文言からも明らかである。

幕府蒸気船行速丸

6月15日に江戸出帆を予定された幕府蒸気船行速丸についての御用状が江戸屋敷から届いた。そこには松岡屋栄吉からの情報が書かれていた〈慶応3年6月22日の条〉

「船中取締り」として行速丸に乗り込んだ三人の幕府役人の名前につづけて、行速丸が磯原に到着したさいには、松岡の役人以外の見物人をなるだけ近づけないようにと、注意書きがあった。理由は行速丸の水主(乗組員)は「殊之外気荒」なので、何かしら間違いが起ってはあとあと面倒なことになる、というのである。

これを受けて「蒸気船着之節見物人不罷出様御達」を触れ出すことなった〈慶応3年6月23日の条〉。おそらくこの地で蒸気船を間近にみる機会は初めてのことになる。見物人が押し寄せることは十分に考えられる。そこで起るかもしれない混乱、それを避ける処置である。

二本柱君沢形への積込み

幕府の君沢形六番船が磯原に6月23日早朝到着した。予定された千秋丸ではなかった。そして信濃屋和助に宛てて大塚山産石炭550俵を積み終えた〈慶応3年6月24日の条〉

この積立てに立会った松岡の掛り役人の寺門尚之介は、これから蒸気船がやってきても1艘分の石炭は保管しているが、蒸気船が今後も続けば、山元での俵・菰に不足が生じる。他領の小豆畑(北茨城市華川町)では菰は100文で1枚半で買上げており、近隣の村では小豆畑にばかり売り、当地の価格100文2枚では菰不足となるの、と報告した。松岡の役所はこの報告を元に100文1枚半で購入することにした。

幕府蒸気船故障

松岡屋栄吉代理虎吉は蒸気船への石炭積込みために毎日ひかえていたのだが、なかなかやってこなかった。そこで江戸から下ってきた船の乗組員に尋ねたところ、その蒸気船なら「品川沖ニ蒸気釜破損」し、修理中であり、大破の場合はすぐに修繕できないので、当分の間はやってこないだろうとの返事だった。ここに船名がないが、行速丸であろう〈慶応3年7月9日の条〉

蒸気船行速丸の代りに君沢形

7月27日、磯原浜に幕府の君沢形一番船が到着した。この船には「武器方御用荷物」19箱が積まれており、松岡屋から松岡領の綱屋文蔵に宛てられたものであった(荷の内容、経過は不詳)。この君沢方一番船は蒸気船行速丸の代りだという。行速丸に石炭1500俵を積む予定であったが、行速丸は「火急之御用」で大坂に向かうことになったのが、その理由であった。修繕は済んだのであろう。君沢方は200石(600俵)しか積めないので、残りは追々船を向かわせて積込みたい、との知らせがあった〈慶応3年7月27日の条〉

そして翌28日、君沢方一番船に大塚山産石炭500俵(166石6斗6升)を磯原緑川岱次郎河岸から積込んで、出帆した〈慶応3年7月29日の条〉

君沢方一番御船は再び10月8日の夕、磯原に到着した。翌9日から10日にかけて大塚山産の石炭500俵を積込みんだ〈慶応3年10月8日の条〉

海漕方御船昇平丸への積込み

10月12日、磯原村船横目の野口又太郎から松岡役所へ通知があった。幕府の洋式帆船昇平丸[15]が磯原浜に到着した。停泊場所が艀船で積込むには適していないが、今日は天候が悪く、明日13日は「平波」になると思われ、かつ「御船手」(船頭)が積込み量が多いので急ぎたいと言うので、松岡の役人の出張を待たずに明日積込み作業を始めたい、というものであった〈慶応3年10月12日の条〉

この「海漕方納」となる石炭の量について、江戸屋敷から9月中に3000俵という通知があった。10月8日の君沢方には500俵であったので、その6倍の積載量となる。

当日、松岡役所の役人が磯原浜に出向いたところ、「海上不宜」ため本日(13日)の積込みは中止、「何れ波向直り次第」あらためて通知するとの船横目野口の申し出があった〈慶応3年10月13日の条〉

その三日後の15日になって、明朝(16日)から積込みを始めるとの知らせが松岡役所に入り、掛り(石川友之助)が出向いたところ、昇平丸は沖合遠くにあって、艀船での輸送に時間を要した。そのため積込みを終えたのが21日朝になってしまったが、河岸問屋緑川と野口がそれぞれに1500俵を積込んで出帆した。

大型船は沖合に停泊せざるをえず、量も多く、艀船での積込みに時間がかかったということであろう。

    • [14]海軍御用留:国立公文書館デジタルアーカイブによる
    • [15]昇平丸:安政元年12月に竣工した薩摩藩の洋式軍艦(帆船)が、翌年9月幕府に献上され、昇平丸と改称、品川に置かれた。西欧の軍艦が急速に蒸気船化したため時代遅れとなり、大砲を撤去して輸送船となり、明治維新後まで使われた(国史大辞典)。

船舶輸送に季節

7月8日に「御軍艦御用」として磯原浜から石炭を積んだ妙法丸は「風見合セ」のため平潟湊に入ったまま五日間出帆できないでいた。乗組員の「粮米」が不足しはじめ、求めに応じて松岡役所は15両を貸出した〈慶応3年7月12日の条〉

江戸松岡屋栄吉から8月中は「時化多之月」であるので、万一のことがあっては困るので、船への積込みは休止するとの申し出があった〈慶応3年8月2日の条〉。陽暦でいえば、9月から10月、今で言う台風の季節である。

石炭の浜下げ

浜下げに大筒車と川船

5月4日、柴田早之介からの願いがだされた。今の季節、農繁期で馬が雇えず、山元近くの川端から浜まで川船で下げたい。かつ山元から川端までの間を大砲の台車(大筒車)で不要のものがあれば、それを用いて川船と同様に「堀職人」に運ばせたい、と〈慶応3年5月5日の条〉

柴田のこの願いは聞き入れられ、「大筒車」を用いて石炭の輸送を行なった。ところが使い勝手がわるく、返却された。おそらくこの地方における最初の試みである荷車による石炭運搬は失敗した。このため柴田は山元から大北川支流の木皿川端までの間を駄賃馬にて運びたいので、隣村に達してほしい、かつ川船は1艘に16俵しか積めず、駄賃と同額を支給してもらえるなら引きあう。そうでなければ、「其日之渡世ニ相成不申」、石炭堀職人のくらしが成り立たない。馬駄賃より下値とするなら磯原村で川船での運漕を請負う者を見いだすよう達してほしい、と柴田は願い出た。松岡役所では川端までの駄賃馬と川船請負人の確保を磯原村へ達することにした〈慶応3年5月12日の条〉

浜下げと会所の経費

このとき、柴田早之助は松岡の高橋善衛門宅を訪ね、「石炭壱俵ニ付諸掛り当節之処積書」を示した。次のとおり〈慶応3年5月12日の条〉

当節石炭1俵につき諸掛り調 慶応3年5月
堀賃鐚132文(25%)
浜下げ駄賃鐚224文(43%)
縄俵・会所掛り鐚113文・鐚54文*(32%)
鐚527文
 内 鐚224文 駄賃 浜問屋支払
 内 鐚303文 山にて掛り
その他道橋の手入れ 敷口[坑口・坑道]の工事 敷内[坑内]の留木代(1本1匁)

「その他」の項目に書上げられているものは「臨時入用」で、その都度申請して代金を貰うという。

梱包材料代と駄賃、つまり輸送関連経費で全体の6割をこえる。それ故に柴田早之介は浜下げの合理化を企図したのである。

上記調書にある「会所掛り」の業務はどのようなものか、と松岡の役人は柴田に尋ねた。柴田は次のように答えた。

人壱人、山石炭堀場所日々相詰居、堀出シ俵数并善悪撰吟味仕、或ハ濱参り、送り候石炭俵雨等ニ不当様ニ気配り、又山ゟ馬ニて下ケ候節送り書ヲ認メ馬方渡シ、縄・俵之買入方ニ村々相廻り候

ひと一人が石炭採掘場所へ毎日つめ、掘出した量の記録、品質を見極め、あるいは積出浜へ出向いて雨にあたらないよう処置し、また山元から浜へ馬で石炭を下げるときに、送り状を書いて馬方へ渡し、また縄・俵の買入れに村々を廻る、そうしたさまざまな仕事への対価であると柴田は説明する。それに対し松岡の役人は、人一人分の仕事が毎日あろうと、1俵に付54文は高い。かつ縄・俵は村々に対し、役人から買上げの達をだし、村々が送ってくるので、安くなるはずだと言う。

結果はわからない。柴田と役人のそれぞれの言い分、どちらに妥当性があるのか、それはわからない。郷士とはいえ柴田は引き下がらざるを得ないだろうか。しかし柴田がこのように堂々と主張する、そこに柴田の個性の問題を超えて百姓、庄屋、郷士層の成長をみることができるのではないか。

浜下げに牛

農繁期に山元から磯原の浜まで石炭を下げるために牛が使えないだろうかと、石炭積立・山見廻り役の寺門尚之助は考えた。松岡領内に30疋ほど牛がおり、その「牛持」に1疋につき三日ほど勤めさせたいと。この提案は受入れられ、駄賃は1俵につき鐚200文とされた〈慶応3年5月25日の条〉

松岡領に牛が30頭ほど飼育されていると松岡の役人寺門は言う。水戸藩領での牛の飼育事例をこれまで筆者は知らなかった。そこで調べてみた。天保10年(1839)に水戸藩が主体となって桜野牧で馬の外に牛の放牧を行ったことがあること知った。南部領から14疋を購入し、母牛から搾乳した[16]。乳牛である。きわめて特異な事例である。

もうひとつの事例、嘉永2年(1849)4月、陸奥国閉伊郡袰綿村(岩手県下閉伊郡岩泉町)の牛方5人が14疋を連れて下総辺りまで「牛商い」の途次、久慈郡太田村(常陸太田市)に立ち寄っていた[17]。この事例から松岡領に牛30頭が飼育されていてもなんら不思議ではない。南部牛は荷役牛である。牛は馬に比しておとなしく、扱いはたやすかった。

俵・菰不足に

夏になって、石炭を入れる俵・菰筵が不足し始めた。そこで中山家中の扶持米の明き俵を買い取り、それをほどいた藁で俵をつくることが考えられ、その買上資金として3両が準備された〈慶応3年7月10日の条〉

磯原浜石炭積み小屋

柴田早之介が磯原浜に建設した石炭保管小屋を中山氏が買上げることになり、その普請入用17両鐚750文の内訳が示された〈慶応3年9月5日の条〉

この柴田の発案になる浜での小屋の南に接して磯原河岸問屋緑川が同様に石炭積み小屋を造ろうと願い出ると、それに同じ問屋の野口又太郎が異論を唱えた。両者の「中済」(仲裁)に入った松岡役所は、緑川が造ろうとしている小屋も松岡郡奉行所持ちにして、世話人が一人では「ひいき之沙汰」にもなるので、「無差別両⼈扱ニて」管理する方策とることとした〈慶応3年9月26日の条〉

    • [16]『水戸市史 中巻三』p.467
    • [17]「嘉永二年 太田村御用留」(常陸太田市文化課蔵写真版)

あれこれ

石炭代金が届く

幕府に納めた石炭1450俵分について代金507両2分が支払われ、松岡屋が江戸屋敷に持参した。その配分は中山氏が300両、信濃屋が運賃と諸経費で207両2分であった〈慶応3年6月13日の条〉

慶応3年7月19日、江戸からの御用状が水戸屋敷経由で届く。内容は7月9日までに軍艦所に納めた石炭の「公納跡口」分1200俵の代金420両、そのうち220両は信濃屋と松岡屋分、残り200両が松岡分として御下げになるという通知であった。7月19日、200両(150両は金、50両は銭)が馬1頭に載せられ、役人・中間・宰領の3人が付添い江戸を出立、四日がかりで運ばれてきた〈慶応3年7月19日・22日の条〉

11月28日、軍艦所納入石炭代として金129両余と鐚640貫文(文久銭)が馬3疋につけて江戸を出立、12月1日夜に松岡に届いた〈慶応3年9月1日の条〉。現金を馬の背に載せて運ぶ。付添いが3人。

柴田早之介一件

慶応3年4月14日、松岡の石炭掛りに中山氏江戸屋敷から書状が届いた。(1)石炭が江戸に届いていないと幕府から催促があった。かつ幕府へ未納入にもかかわらず、江戸市中には松岡産の上品の石炭が「沢山にぬけ俵」として出回っているように見受けられる。(2)平潟の廻船問屋板屋市兵衛[18]が江戸深川の問屋信濃屋に出向き、石炭の前金の借用を要求し、できなければ積立てはしないと言っている〈慶応3年4月15日の条〉

この2点において、柴田早之介から石炭堀取業務を取りあげるか、船積み業務を禁じるか、いずれかの処置をとられたい、という中山氏江戸屋敷の意向を伝える書状であった。これに翌4月16日、松岡の高橋善衛門らは柴田を呼び出し、「以来堀取方一切指留」と伝え、さらに保管分については引き渡すよう命じた〈慶応3年4月16日の条〉。その日のうちに係の小林渓蔵が大塚山に出向き、山元に保管してある石炭の数量を確認した。この時に提出された柴田が採掘した石炭処理の内訳書は次表のとおり。

柴田早之介採掘石炭処理 (単位:俵)


惣掘高


6,450

浜下に成る

4,860

積立

3,078
海中捨り 1,101
御屋敷納、
江戸御廻し分
1,917
浜蔵に有 1,782
山に有り 1,590

翌17日、柴田は上手綱村の修験宝昌院を通して詫び状を入れた。業務の継続には松岡の役人の指示にしたがうこと、かつ誓約書を入れることを条件とした〈慶応3年4月17日の条〉。4月20日、柴田は再度詫び状を書き直して提出し、翌21日「世話方」継続となった〈慶応3年4月21日の条〉

堀場の追加

これまでの大塚山の石炭採掘場では、「品不足」かつ「悪石炭」が出るようになって、選り分けてきたが、「脇場所」、他の地に良質の石炭が出る場所があれば申し出るようにと柴田早之介へ指示したところ、大塚村足立坪[19]にある百姓持ちの刈敷山に良質の石炭が出るとの「石炭掘共」の報告もあり、調査したところ「上石炭出候」場所と考えられたのでこの百姓持ちの刈敷山約8反歩を他の山野と交換して「御用山」とすることにし、大塚村庄屋大塚吉次郎に指示した〈慶応3年9月5日の条〉

そして開鑿のための経費算出を柴田早之介に命じたところ、以下のような見積書が提出された。

道造り賃(本道まで) 人足 12〜13人 1工(1人1日)に付1朱と米1升
敷口附手間(坑口開設工事) 人足 3〜5人

「道造り賃」が計上されているように、水田の一部を潰して新たに「牛馬通行之道」を造成しなければならない。その「道代」になる4人の百姓がもつ水田のうち3畝歩(90坪)分の年貢を「永引」として年貢対象地から抹消するのではなく、年貢高はそのままにして松岡役所から「足代銭」(いわば使用料)を支払うこととしたいと松岡役所の役人から提案があった〈慶応3年12月20日の条〉。結果は不明。

翌慶応4年正月17日、松岡屋栄吉が松岡にやってきて、苗字帯刀を許されたことの礼を述べ、23日に「新石炭山」を見学した。そして翌日には、松岡屋との間で石炭代金の値上げ交渉がなされ、今春から磯原渡し1俵銀7匁5分から5分値上げし、8匁とすることにまとまった〈慶応4年正月17・23・24日の条〉

文久銭に職人たちは難渋

柴田早之介から「石炭掘賃等」の「山掛り入用」金の請求があり、それに松岡役所は金20両と鐚200貫文を支払った。鐚銭は先日江戸から送られてきた文久銭[20]であった〈慶応3年9月14日の条〉。その文久銭で柴田は石炭掘職人たちに堀賃などを支払ったところ、中ノ郷[21]とよばれるこの地域で、文久銭で200〜300文くらいの端た金は受け取る者もおらず、「酒一升相求候にも右銭(文久銭)ばかりにては」受けとろうとしない。ゆえに「職人共難渋」しているので、中ノ郷での金1朱(1両の1/16、約鐚400文)分ぐらいなら受け取るよう中ノ郷の村々に達してほしい、と柴田は願い出た。松岡役所はその願いをいれた〈慶応3年9月17日の条〉

ところが、松岡役所の達は、500文以下の取引に限って文久銭を通用させる内容になってしまったようで、職人たちばかりでなく、柴田の縄菰代金1駄3貫500文〜5貫の支払いを一度にではなく500文に分割して支払わなければならなくなってしまった。これでは困るので、今後は文久銭を除いて支払うか、あるいは4〜5貫まで通用させるよう達してほしい、と願い出た。

松岡役所が調べたところ、松岡の郡奉行所の達し間違いであることがわかった。しかしたとえ「間違ニも今更達直シと申儀も相成兼」るとして、江戸からは金1両に文久銭9貫100文の換算比で送ってきたものだが、当地松岡ではさらに「三百文…延安ス相場ニ致シ御下ケ」、つまり9貫400文で1両という換算で文久銭を松岡領内で通用させることとしたのである〈慶応3年9月20日の条〉

    • [18]板屋市兵衛:武子市兵衛、板屋は屋号。平潟の廻船問屋。安政6年(1859)から翌年には、片寄平蔵が奥州磐前郡白水村(いわき市)で採掘した石炭を小名浜から積出している(『横浜市史 補巻』p.167)。明治7年(1874)1月に多賀郡上小津田村(北茨城市)に炭鉱を開坑している(明治13年茨城県坑業一覧表)。
    • [19]大塚村足立坪:足駄内・芦田内とも。北茨城市大塚字足田内。
    • [20]文久銭:文久永宝。文久3年(1863)2月発行。1枚4文。1両に13貫932文。銅貨の寛永通宝を改鋳。従来の寛永四文銭よりも小型で,材質も劣る。
    • [21]中ノ郷:「水府志料」によれば、足洗・松井・福島・石岡・上桜井・下桜井・磯原・豊田・大塚・内野・木皿・上相田・臼場・大津の14ヵ村を指す。現在の北茨城市南部。

軍艦所に納入する以外に

商用口

江戸屋敷からの慶応3年4月29日付書状に「又大塚山石炭八拾俵之外ニ早之助心得違ヲ以、明石屋治衛門商用口ニ送り候品之由ニ弐百俵余信濃屋相廻候」とある。これは4月に入って清徳丸に積込んだ軍艦所向けの80俵〈4月15日の条〉以外に、柴田早之助は「心得違」によって200俵余を明石屋治衛門に「商用口」に送ってしまった。それを軍艦所納入を担当する信濃屋和助に廻送した、と言うのである〈慶応3年5月6日の条〉

明石屋治衛門(治右衛門)は江戸の海産物商で、安政6年(1859)6月、陸奥国磐城郡大森村片寄平蔵と共同で横浜に明石屋平蔵という屋号で問屋を開設し、軍艦所へ石炭を納入していた人物である。

横浜と松前へ

軍艦所への納入が始まる前の慶応2年6月から3年3月までの間、柴田早之介が6回に分けて磯原浜から石炭を積み出していた。横浜へ合わせて610俵、平潟経由で松前[22]へ477俵にのぼった〈慶応3年4月13日の条〉。この横浜と松前へ送ったもの計1087俵は、横浜(神奈川)と箱館に入港した外国蒸気船向けではなかったろうか。これも「商用口」である。

軍艦所への納入が始まる以前にも実は松岡領からは石炭が採掘され、蒸気船用の販路を見いだしていたのである。

慶応2年6月23日〜同3年3月21日 柴田早之助採掘石炭積出記録
積込日 船名 積立俵数 積立河岸問屋 出荷先
慶応2年
6/23 虎寿丸 130 不明 横浜
11/ 5 順栄丸 300 不明 横浜
慶応3年
1/28 東海丸 180 不明 不明
3/ 7 (平潟へ積廻し) 174 野口又太郎 松前
3/ 8 (平潟へ積廻し) 134 緑川次兵衛 松前
3/21 (平潟へ積廻し) 169 野口又太郎 松前

古石炭

慶応3年5月、先年、松岡郡方にて掘らせ、磯原浜の蔵に保管している「古石炭」を江戸信濃屋へ送り、「商用」に売れないだろうかと、中山氏松岡の役人たちが磯原に出向き、柴田早之介配下の石炭職人に古俵を解かせ、新しく俵装しようとして中身を改めると「渋喰」となっていた。中には土石が多く混じっており、売り物にならないことがわかり、試しに江戸信濃屋へ送るまでもなく廃棄することに決した。それでも買おうとする者がいたら、価格はどんなであれ売払うことにした〈慶応3年5月17日の条〉

    • [22]松前:北海道松前藩の藩庁が置かれ、城下町のある松前町を指すのではなく、その領域内に幕府が奉行所をおいた地でかつ港をもつ箱館(函館市)を指すものと考える。箱館に貿易船として最初に入港したのはアメリカの商船で、安政6年(1859)6月のこと。

2冊めの石炭御用留

この2冊めの「石炭御用留」は慶応4年正月17日の記事から始まり、23日、そして3月14日付磯原船横目野口又太郎の御用石炭積立報告書を写して終わる。わずかに一丁分(2頁)を記録して。

慶応3年10月14日大政奉還、翌慶応4年1月3日、京都では幕府と薩長とのあいだで鳥羽・伏見の戦いが始まり、6日、将軍慶喜は戦闘中の将兵を見捨てて大坂城を脱出し、江戸へ向かった。正月24日、維新政府から中山氏は大名として取り立てられる。3月14日には京都御所において五箇条の誓文が交付される。松岡藩も混乱に陥るが、4月に入ると明らかに松岡藩は維新政府側に立った。松岡領内産出石炭の幕府「御用」は消失した。

参考 片寄平蔵と軍艦所

陸奥国磐城郡大森村(笠間藩領 福島県いわき市四倉町)の片寄平蔵が常磐地区において松岡領に先行して幕府に蒸気船用石炭を納入している。片寄の活動のあらましを年表ふうにまとめて参考に供しよう。

安政3年(1856)5月 片寄平蔵、陸奥国磐前郡白水村弥勒沢(湯長谷藩領 福島県いわき市)で石炭発見、開坑
安政5年(1858)10月 幕府から石炭3,000俵納入を命ぜられ、江戸へ廻漕
安政6年(1859)1月 外国奉行(安政5年7月8日設置)宛てに石炭及び延紙・椎茸を交易品にしたいと願い出る
安政6年(1859)6月 横浜開港とともに江戸の海産物商明石屋(渡辺)治右衛門店の出店として明石屋平蔵名義で問屋を横浜に開設。明石屋と片寄の共同事業。このときの明石屋の取扱い商品は石炭・美濃紙・椎茸であり、当初、片寄平蔵が持ち込む磐城地方物産の売込みが主眼であった。その後まもなくして青物・乾物・塩干魚類・炭薪・材木などが加わり、取扱い商品が拡大する。
安政7年(1860)
1月
幕府軍艦操練所に送った石炭1090俵の積戻入用金受領
万延元年(1860)
8月3日
片寄平蔵歿
文久元年(1861)
9月
片寄平蔵の後継者古川屋唯助(只助)ら、幕府軍艦所に3,000俵を納入。小名浜にて幕府軍艦に積込み
文久3年(1863) 明石屋は石炭屋と改称
この年、石炭屋は軍艦操練所へ石炭8170俵納入
『いわき市史 別巻 常磐炭田史』『横浜市史 補巻』より

主要参照文献