備中国の地理学者がみた水戸領
古川古松軒「東遊雑記」から

古川古松軒「東遊雑記」のうちから水戸領、すなわち奥州との国境の徳田村から棚倉海道を通り太田村から水戸へ出て、水戸海道を江戸に戻る行程の途上での見聞記録を紹介する。

目次


古川古松軒と「東遊雑記」

古松軒は享保11年(1726)8月備中国下道郡新本村(岡山県総社市)生まれの地理学者。文化4年(1807)11月10日に歿。享年82。天明3年(1783)の九州への旅は「西遊雑記」としてまとめられている。

「東遊雑記」は、天明8年(1788)5月6日江戸を発ち、10月18日江戸に戻る5ヶ月におよぶ奥州筋(陸奥・出羽・松前)の幕府巡見使に随行した古川古松軒の記録。水戸領は、10月14日から15日に通過する。

幕府巡見使

全国を8地域(五畿内筋・四国筋・九州筋・中国筋・北国筋・奥州筋・関東筋・東海道筋)に分けて、将軍の代替りごとに行う。天保9年(1838)まで続けられた。天領・私領の別なく在地の民衆を直接監察し、個別領主の「仕置の善悪」を監督することに主眼が置かれていた。しだいに監察の実効性を失い、儀式化する傾向が強かった、と言われる。

天明8年の巡見には、正使に御使番の藤沢要人(高1500石)、副使に御小姓組の川口久助(2800石)と御書院番の三枝十兵衛(1000石)で、それぞれに従者がつき、一行は117人の大人数となった。

凡例

[本文]

[十月]十四日下関[下関河内村 福島県矢祭町]御出立。三里、常州大中村[常陸太田市]休息、太田村〔常陸太田市〕止宿。

巡見終了

下関の南一里に両国の界あり。堺の明神とて少しき社あり[1]。これより北は奥州白川郡大拱オオヌカリ村[福島県矢祭町 大垬とも書く]、南は常州多賀郡徳田村[常陸太田市]なり。御巡見使御三所[2]ともこの所までにて御巡見の所滞りなく相済みて、御歓びありしことなり。さて和漢三才図会、増補日本行程記[3]、この外一枚摺りの地図などに行程を引き合わせみしに、大いに違うこと多し[4]。板として世に弘むる書なれば、だいたいのことは改むべき埓もなきことを記して、人を欺くこと不審なり。この大ぬかり村を何れの書にも常州と記せり。されどもこれは奥羽なり。かようのこと甚だ誤りなり。

国境の峠を越えて、巡見使の役目は滞りなく済んだ。巡見使を迎える側も大変だが、巡見使も緊張の連続だったに違いない。その喜びが伝わってくる。

[註]

  1. [1]堺の明神:境明神とも。徳田村の鎮守。
  2. [2]三所:陸奥・出羽・松前
  3. [3]和漢三才図会:正徳から享保の間に刊行された図入りの百科事典。大坂住の医者寺島良安が30余年をかけて編纂。全105巻、首巻・目録各1巻、81冊。
    増補日本行程記:不明。
  4. [4]よくあること。地理学者らしい指摘である。土地鑑のない人物が執筆・監修するとしばしば起こる。そんなに怒らなくとも。編纂物に間違いはつきもの。そのことを前提にして文献・史料を読まなければならない。現代でもそれは変わらない。本人が正しく書いても、写を作る、翻刻する、そうした時点で間違うことだってある。本サイトも例外ではない。

常陸国は上国、江戸の風儀

これはさて置き、両国の堺へは水戸君の家士十頭御巡見使御馳走[5]として出迎えあり、至りて厳重の御饗応なり。さて常州に入りて見るに、実に上国[6]の風儀見えて、民家のもよう[模様]もよく百姓の体賤しからず。農業も出精するにや、何れの作物もみごとなり。御家中の諸士武風十分に備わり、威儀堂々として礼儀正しく、昔賢君光圀公の御政事今に残りてかくの如くなるべしと、人びと感激するばかりなり。江戸を出でしより若干の月日を重ね、奥羽の大国を廻り、松前より蝦夷界に至り、多く諸侯の領地を見て今日この所に来たり御領分の様子を見るに、なかなか並べいうべきものなし。もっとも上方に近き国なれば、民百姓自ら江戸の風儀を知り[7]、礼儀に叶い賤しからず、貴賤ともに万事備わりたれば、誠に西山公の御遺風かくまで厚きことを返すがえすも申し出し侍る。

陸奥国との境に水戸藩の家臣が迎えに来ていた。常陸国に入ると実に豊かな国の様子が見え、民家の出来もよく、百姓の身なりも賤しくない。農業に精をだしているせいか、どんな作物も見事な出来である。

水戸徳川家中の家臣たちには武風が備わり、動作や姿勢も堂々として礼儀正しい。光圀の政治がこの時代になっても生きているからだろうと、巡検使たちは感激した。

古松軒は、巡見に出てから陸奥・出羽・松前の諸侯の領地をみてきた。巡見を終えて入った水戸領の様子は奥羽の地に比較しようがない。民家の模様もよく、百姓たちの身なりもいやしくないと言う。直前の棚倉城下で見た光景が強く印象に残っていたのであろう。「棚倉城下より十余町東に、御種人参を夥しく植うるなり。柵結い廻らして御用人参植所と書きし札所々に建てあり。……この人参畑も大いに荒れて、明き地多し」「市中は上方・中国筋の城下と違い、草葺きの家ばかりにて見苦しく、六万石城下とは見えず」と水戸領入る二日前に記している。天明2・3年に奥羽地方を襲った飢饉の影響が残っているにせよ、貧しい東北、豊かな畿内・中国、その中間に位置する常陸国。そんな図式を古松軒は描いている。

  1. [5]馳走:(1)馬を駆って走らせる(2)世話をする(3)食事のもてなしをする、立派な料理、の意味がある。あとに出てくる饗応に対応するか。
  2. [6]上国:大藩あるいは文化の進んだ優れた国、また豊かな国と言った意味がある。
  3. [7]水戸藩は定府制である。藩主だけでなく多くの家臣が江戸藩邸に詰めている。これが水戸藩の財政を困難にしているにしても、江戸の流儀が領内に行き渡っていたのだろう。しかも巡検使には特に江戸風をもってもてなしたに違いない。

玉垂の滝

太田村の二里北に河内村[8]というあり。この地に玉簾寺[9]という寺あり、もっとも古跡にて風景宜しき地なり。山上より滝落つる。玉垂の滝といえり。

  1. [8]東河内上村のこと。現在は日立市。
  2. [9]臨済宗、徳川光圀の命によって創建されたと伝わる。境内にある玉簾の滝は、日立市指定文化財(名勝)

中山氏の在所

久慈郡太田村は水戸の臣中山備前守殿御在所なり〔三万石〕[10]。御巡見使御通行に付き、門の左右に ■[11]かくの如きの紋付けし陣幕数多打ち廻らし、諸士大勢出で来たり御巡見使を迎うる体甚だ厳重に見えしなり。この地は昔佐竹侯代々の御城地にて大いに繁昌せし所なり。このゆえに城も要害よく見えしなり。今は櫓もなく城門もなきゆえに、心なく見れば城とは見えわかぬなり。佐竹左中将義宣の代に、ゆえありて羽州久保田へ所替えありて、知行も減ぜしなり。太田の町千軒余、大概[12]の町なり。

  1. [10]水戸藩附家老中山氏(2.5万石)は、宝永4年(1707)から享和3年(1803)まで太田村に陣屋を構えていた。
  2. [11]■の位置には中山氏の家紋「枡形に月」が描かれる。
  3. [12]大概:ひととおり、特別なことはなく一般的なこと。

西山荘と瑞竜山

これより西八町に村[新宿村]あり、その辺に西山という勝地あり、中納言光圀卿御隠居ありし所なり。この君の賢徳ありしことを、西山遺事[13]という書に顕わせしなり。今に久昌寺と称す寺に光圀公御束帯の像を安置ありて、日蓮宗を信仰し給うゆえに寺領五百石寄付ありて、学坊多数ありて宜しき寺なりと、案内者物語なり。太田の北に瑞竜山というあり。この所に水戸公御代々の墳墓あり。寺も佳き寺院にて、大明舜水先生の墓もあるなり。また西山村へ行く小道に桃源橋と号する橋あり。その辺数千株の桃繁茂して、花の盛りには甚だみごとなりといえり。近きころ奥州守山侯[14]より碑石を建て、光圀卿・舜水先生[15]の賢徳を文章に述べ給えり。この辺見るべき所数多ありて、行程わずか十町に過ぎずといえども、私の旅ならねば心に任せず、詳かに見ざること残念なり。

光圀の隠居所西山荘、光圀が建立した久昌寺、水戸家の墓地瑞竜山、桃が繁茂する桃源橋、いずれも巡見使一行は立ち寄っていない。案内者の話を記録しただけである。行程わずか十町、1キロメートル余なのに「私の旅」でなかったので訪ねることができなかった、と如何にも残念そうである。その点で巡見使の旅は窮屈なものであったのだろう。

  1. [13]西山遺事:水戸藩2代藩主徳川光圀の言行録。光圀に仕えた三木之幹、宮田清貞、牧野和高の3人が、光圀の没した翌元禄14年(1701)に編集。5巻。一名「桃源遺事」とも。
  2. [14]水戸徳川家の分家で、水戸三連枝の一つ。陸奥国田村郡を核に常陸国ほかに領地をもち、守山(福島県郡山市)と松川(茨城県大洗町)に陣屋を置いた。
  3. [15]舜水:朱舜水。江戸初期に明から渡来した儒学者。光圀が水戸藩に招く。

十五日太田発足、五里、枝川休息、二里半、長岡止宿。

味噌・醤油が不味いのは

太田より南一里に久慈川あり、舟渡しなり。奥州白川郡より流れ出ずる。この辺の農家いよいよよし。この節は稲を刈り入るる時節にて、男女小児に至るまで農業を大切に勤むる体なり。宿々において料理むきなども奥羽と違い取り合わせよく、上方に似たれども、ただ味噌・醤油の味あしきには人びとこまりしなり。光圀公御代より民の奢りを大いに制し拾い、分限に過ぎたる暮しをすれば厳しく罰し、家業出精して奢らざる民を厚く賞し給えば、民百姓互いに励み合いて国主の倹約を移し、いつとなく質朴の国風となりて、味噌・醤油などの宜しきを食するものを奢りのごとく憎むゆえ、今に至ってかくのごとしといえり。この辺の山より笹石・鼈甲石とて奇石の出ずる所あり、街道より一里の入り込みなり。

太田近隣の農家の暮らしぶりは、ますます良く、それは子どもにいたるまで勤勉だからと古松軒は見る。宿で出される料理も上方に似てよかったが、味噌と醤油の不味さに巡検使の皆は困った、と言う。その不味さの由来は、光圀以来の質素倹約令が行届いていて、味噌などの「宜しきを食する者を奢りのごとく憎むゆえ、今に至ってかくのごとし」と言ったのは、水戸藩の役人である。おそらく大豆を節約した味噌醤油なのであろう。

それにしても味噌醤油の味のエピソードには作為を感じる。光圀及び藩の政治が領民に浸透していることを幕府に強調する水戸藩の演出ではないか、などと考えてしまう。宿の料理は藩お抱えの料理人が作っている。不味いものを出すはずがない。上方、京風を上品とする意識が水戸藩には強かったと想像される。そのなかで、あえてまずい味噌醤油を出したのではないか。

寒国の棉作り

常州は北方に山連りて、太田へ出ずるまではみな山道なり。山畑は大方綿を作れり。寒国ゆえに八月ごろより冷気強し。ゆえに綿のもも口〔草綿の実〕ひらかず。これによりて綿の木を根ながらぬき、柵を結いて日おもてに逆さまに釣り置きて、綿のもも口をひらかすなり。畑一反に綿五貫目ばかり取るという[16]

江戸時代の庶民的衣料は、麻から木綿に変わってきている。自然に開かない白い綿の実。品質は劣る。しかも開かすために手間をかける。これでは商品にはならないだろう。この地域の棉花栽培は自給用が主たる目的ではないかと推測される記事である。

  1. [16]綿は熱帯から温帯の年平均気温摂氏15度の地域で栽培され、日照を多く必要とし、生育期間の40%以上、とくに結実期が晴天であることが必要とされる。常陸太田市の2007年の年間平均気温は、摂氏14.8度である。

水戸城下の衰退と大水

枝川[枝川村:ひたちなか市]は太田より五里、このところ在町にて町の南に川あり。中川〔那珂川〕と称して常州第一の川という。下野那須山より流れ出ずるなり。戊亥〔西北〕より辰巳〔東南〕の方へ落つるなり。この川水戸城の北岸を流る。もっとも要害の川上なり。川を渡ればわずか八町にて水戸の下町というに至るなり。去々年[天明6年]の大水[17]に町まち大いにいたみ、往来筋草葺きの家多く、上方筋の城下より劣りしなり。上町も下町に同じ。

古松軒ら巡見使一行は、水戸城内には入らず、枝川から水戸下町を通って、そのまま長岡の宿に向った様子がうかがえる。街道筋の下町(下市)は草葺きの家が多く、水戸の城下は西国の城下町に比べて貧弱で、台地上の上町(上市)も同様だと、古松軒は見た。水戸の本丸崖下の那珂川と千波湖に挟まれた低地に広がる下町は2年前の那珂川洪水で水に浸かり、復興は進まず建物は傷んでいるという。

洪水の被害を受けていないはずの上町でも下町同様上方の城下町より劣っているという。古松軒は上町を実際に見ていない。人づてに聞いたのであろう。下町の衰微は上町同様に洪水で始まったわけではなかった。在郷町の発展、新興在郷商人の擡頭などにみられる水戸領域全体での流通の変化があり、城下町商業の衰微が顕著となった[18]時期に、古松軒は下町を通過したのであった。

      [17]天明6年の大水については、史料 天明六年の洪水を参照。
    1. [18]水戸下町の衰退事情については、古松軒が通過した前月に藩に提出された「天明八年水戸下町衰微次第書上」があり、詳細に知ることができる(『茨城県史料 近世社会経済編Ⅳ』史料番号59)。

日の本は常陸国から

世に東海道と称するは、伊勢国鈴鹿より初まり、奥州・常州の界なこその関にて終るなり。海内[19]を日の本と号するも、この常陸国より称え初めしといえり。常陸国東方の限りにて日立と書き、これによって日の本とも称せし名の、いつとなく海内に弘まりたるなり。日本を大和と号するも、神武帝軍を発し中国を討ち平らげ、やまとに都を立て初め給いしより、自然と大和の国号広まり海内の惣名となりしものなるべし。このこと世上流布の書にまま見る所にして、後の人の作説もあるべきなれども、中には道理に叶いしもあれば捨てがたくて、ここに記し侍り。

日本の国号が、常陸国に由来するという説は、後世の人の作説の可能性もあるだろうけれど、道理にかなっている部分もあり、捨てがたいので紹介した、と古松軒は言う。私にはわかりせん。

  1. [19]海内:かいだい。かいない、とも。四海のうち、国内の意。

水戸の大城

水戸侯の御城は聞きしより大城にて、北の岸に中川流れ、大手は千波の沼を以て要害とし、風景も宜しく魏々[20]然たる構えなり。御城の細図あるをもって、ここに略して、ただあらましを左に図するものなり〔原本に図欠〕。

  1. [20]魏々:ぎぎ。雄大でおごそかなさま

奇童藤田熊之助(幽谷)の来訪

枝川の休所へ藤田熊之助〔幽谷の長子、東湖の兄〕[21]と申す仁、予を尋ねて参られたり。これ水戸の家中の子息なり。菓子など持参して懇切の挨拶あり。これは当春紅毛国の机覆いを送りし謝儀とおぼゆ。かつわざわざ尋ねらるる深切の志も嬉しく、閑談ねんごろなり。今度始めて対面せしに、人物甚だ宜し。いまだ十五歳ながら、進退もよく言語さわやかにて、大人にも勝りし気性あり。実にも聞きしがごとく、才子かなと感心せり。赤水先生[22]兼ねて申されしは、熊之助十三歳より詩作文章に巧みなり。草稿もなく筆を取るより思い文を連ぬ。平生の人の書状を書くがごとく、予が弟子に稀なる奇童なり。中華の王勃十三歳にて滕王閣の文を書す。熊之助遙かのちの世に生れて、王勃にも劣らぬ奇才なりと感ぜられしなり。さて巡覧せし東奥・松前等の物語などして数刻を移し、かの拾い帰りし舎利浜[23]の玉石五十顆ばかり送りしかば、大いに悦びし体なり。かくて尽きざることゆえ、互いにいとまを告げて別れぬ。熊之助名残をおしむ風情あらわれたり。

  1. [21]藤田熊之助を大藤時彦は「幽谷の長子、東湖の兄」と註記するが、天明8年(1788)のこのとき15歳であるなら、安永3年(1774)2月18日生まれの藤田幽谷のことである。ちなみに幽谷の通称は熊之助。
  2. [22]赤水先生:長久保赤水。享保2年(1717)常陸国多賀郡赤浜村(高萩市)生れ、享和元年(1801)歿。安永4年(1775)に刊行の『改正日本輿地路程全図』の著者で知られる。安永6年水戸藩主徳川治保の侍講に抜擢され江戸に出仕、寛政3年(1791)75歳で致仕。地理に関心をもつ二人。古松軒とは江戸で知りあっていたのであろう。
  3. [23]舎利浜:青森県東津軽郡今別町袰月(ほろづき)にある。古松軒は「袰月浜といへるは、世に舎利石と称する奇石の出る浜なり。此故に土人舎利浜とも云うなり。其石のうつくしき事伊勢真珠を見るがごとく、光りわたりてすき通ること水晶よりも明らかなり」(三一書房版「東遊雑記」)と言う。

十六日長岡御発駕、五里、府中〔石岡市〕休み、八里、牛久止宿。

長岡宿で火事にあう

長岡[24]は大概の町なり。しかるに十五日夜九ツ時〔十二時〕長岡の町中に出火ありて大いに騒動す。火ひろがりて、水戸公より御馳走役として付添役人衆の家も焼亡し、御巡見使も外へ退かれしことにて、人びと大いに狼狽せり。長旅すればさまざまの変もあるものなり。

水戸言葉、今は江戸言葉

新治郡府中[石岡市]は、水戸の御連枝播磨守侯〔二万石〕[25]の御在所にて、大概の町なり。水戸よりの街道[26]筋はよき道にて往来も繁く、江戸に近き土地ゆえ、万事よく似て俗ならず。水戸言葉とて鼻にかかり解し難しといいしは昔のことにて、今は往来筋は江戸の言語移りてよく分り、賤しからず。

水戸から江戸への街道(水戸海道)に入ると、道は整備され、人の行き交いも多くなると言う。現代で言えば、常磐自動車道が水戸から先は3車線であることに対応していようか。そして江戸に近いため、昔の水戸訛りは江戸の言葉に変わってきて理解できるようなった、と古松軒は言う。これは水戸以南、江戸までの海道筋にみられることで、水戸領内のことではない。

  1. [24]長岡:長岡村。宿駅の村。水戸領で、水戸藩主が参勤のおり休伯する別館があった。
  2. [25]水戸の御連枝播磨守侯:常陸国府中藩(2万石)の藩主松平頼前のこと。水戸藩の分家のひとつ。
  3. [26]水戸よりの街道:江戸から水戸までの水戸海道のこと。

土芥寇讎記の水戸藩評判

水戸言葉に関連して、金井圓校注『土芥寇讎記』(江戸史料叢書 1967年刊)から徳川光圀治世下の水戸藩情の一面を紹介する。土芥寇讎記は元禄期の全国諸大名を網羅した人名辞典であり、かつ藩制便覧としても利用できる著作。編者不明。

家士過半ハ百日替リニ勤仕ス。近境タル故ニ江戸・国共ニ家士勝手シ。家民トモニ御哀憐深キ故ニ心安シ。[中略]家人等文武諸藝ヲ学ビ淳ニシテ勇義備ル。但シ住居下国タル故ニヤ、御三家之中ニテハ風俗遙カニヲトレリ。然レ共元来江戸詰之士ハ風儀モヨシ。国生立ソダチ之人ハ、コトバ五音モ聞悪キヽニクキ故ニ風俗悪敷見ユルト也。国ニ禽獣魚柴薪多シ。土地中之上、米能ク生ズ。払ヒ中抵也。城本国之東平城、東ニ有リ海、諸事自由ヨシ。繁昌之地ニシテ、尤国中之御作法ヨシト聞フ。

元禄からほぼ百年たった天明期には水戸言葉も変化していたということか。

──この項 2019-03-10 追加

底本について

上に紹介した大藤時彦編の平凡社東洋文庫版「東遊雑記」は、旧第一高等学校本(東大駒場図書館所蔵本)を底本とした柳田国男校訂『日本紀行文集成』(『帝国文庫』第22編 1930年 博文館発行)によったとする(大藤解説)

現在私たちが参照することできる刊本にはもうひとつ『日本庶民生活史料集成 第3巻』(1969年 三一書房)がある。こちらは「足利文庫所蔵二十六巻本」を底本としたという。この二つを比べてみると、異なるところがあり、かつ原本の割書や漢字・仮名の表記などの忠実な再現をめざしたという三一書房版も読んでみたいという方はこちら 備中国の地理学者がみた水戸領 三一書房版 を。大藤は「古松軒は何度か写し本をつくったと思われ、定本と称すべきものはまだできていなかったと思われる」と東洋文庫版の解説で述べている。東洋文庫版は三一書房版よりは整理されているように思われる。原本を見ないと断定できないが、活字になったものを比較してみて、そのように感じられる。

おまけ 玉垂滝と水戸城の絵

東遊雑記の写本に弘前大学附属図書館のものがある。これはWeb上に公開されている(http://www.ul.hirosaki-u.ac.jp/collection/rare/toyu1/index.html)。その中から玉垂の滝(上)と水戸城(下)の図を紹介する。


▲玉垂の滝が里川に流れ込むさまを描く。木橋が架かっている。この道は棚倉海道。今は上方の山の中腹に道がある。滝の右に階段状の道がある。冠木門が見える。玉簾寺への道だろう。