薩都の読み
常陸国風土記にある地名由来 日立篇

島崎和夫

「常陸国風土記」に登場する薩都の里。この薩都を何と読むか。

読み下しを一部の読み、振り仮名をはずして示す。

此より、北に、薩都さつのさとあり。いにしへ有りき。名をばつちくもふ。ここに、兎上命うなかみのみこといくさおこしてつみなほろぼしき。時に、く殺して、「なるかも」と言へり。りて佐都と名づく。…小水おがはあり。薩都河と名づく。

訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。

薩都と佐都の読み

薩都をそのままに読むならば、サチツである。薩はサチと呉音読みし、都は呉音でツ、漢音でトだが、薩にあわせて呉音でと読む。

しかし「佐都と名づく」とある。佐は呉音・漢音ともサなので、佐都はサツと読む。

2ヶ所にあらわれる薩都サチツと1ヶ所の佐都サツがある。佐都は表記のゆれなのか。そうではなく地名は薩都である。なぜなら里と河の名称として表記しているからである。とするなら佐都は何か。薩都の読みがサツであることを示すために編修者がおいたのである。したがって薩都はサツと読む。

ツに都を用いたのは、好き字をあてたことは言うまでもない。

福の読み

ここで厄介なことがある。兎上命が「よく殺して、福なるかも」と言ったとき、福を何と発音したか。呉音でホク、漢音でフク。しかし「よりて佐都と名づく」とあるから、ホク・フクではない。サツかというとそうでもない。文脈からは「福」は「さいわい」「しあわせ」の意味である。さいわい・しあわせの意味があってサツの音に近い音をとって「よく殺して、サチなるかも」と言ったのである。サチに福の漢字を宛てたのは、風土記の編修者である。

ところが風土記の編修者は、サチが福の意味をもつことを薩都里の条では触れていない。後出する多珂郡の飽田村の条「 くにひとことば」で述べている。この点については「さちは多珂郡から生まれた」で説明するが、編修者は薩の音サチを、さいわい・しあわせを意味する多珂郡の方言サチに重ねていることを指摘しておく。

薩は仏教用語

薩を使うのは、都を加えて里の名前(地名)を二文字にしたいことと、あえて薩を用いる意味があったからだと推測する。

薩は呉音でサチ、漢音でサツ。ただし単独で用いられることはなく、熟語も少なく、菩薩と薩埵のみである。菩薩ぼ さちは菩提薩埵の略で、悟った人、悟りを求める人のこと、薩埵さつた は命あるものの総称である(新大字典)。

薩の文字は常陸国風土記にはもう1ヶ所多珂郡仏浜の条にあらわれる。常陸国風土記の仏教関連の唯一の記事だと言われている仏浜の条には、仏浜と名づけた理由はそこに「観世音菩薩像」を彫ったからである、とある。

「奈良時代の仏教には、鎮護国家の思想があり、戦争のとき観音を念ずれば危害を免れるという考えが大化改新前後から広まっていた」(志田諄一)。つまり観音は当時の蝦夷征討の指揮官や兵士たちにとって安全を約束するものとして信仰されていた。勝利や身の安全がはかられる。それは福、さいわいなことである。蝦夷征討を命じた者にとって、征討に加わる兵士たちにとって、風土記の編修を命じた者にとっても。

国栖の土雲(土蜘蛛)征討の指揮官兎上命にとっても同様である。薩を用いる理由がここにあると考える。仏教関連記事はここ薩都里にもあった。佐都としてもよいところをあえて風土記の編修者は、菩薩つまり当時最新で教義体系をもった唯一の宗教としての仏教をイメージさせる文字を用いたと考えられないか。

薩都の表記には、薩・サチ・さいわい・福が交錯しているのである。

薩都の地名表記は、うがってみるならば、兎上命の国栖征討によりながらヤマト王権の拡大の物語を地名に投影し、固定化しようとしたと言えよう。

風土記の読み手は

風土記は地方の官庁から中央の役所に向けた「解」(報告)の形式をもって作成されたものである。したがって編修者が読み手として想定しているのは、中央の役人である。彼たちが理解、納得できればいい、そのように文章が作られているはずである。