藻島 めしま
常陸国風土記にある地名由来 日立篇

多珂郡に属する藻島の由来を次のように説明する。

こほりの南卅さとに、藻島駅家め しまのうまやあり。東南ひむがしみなみの浜にあるごいしの色、珠玉たまの如し。はゆる常陸国にらゆる麗しき碁子ごいしは、唯、是の浜にのみあり。昔倭武天皇やまとたけるのすめらみこと、舟に乗り海に浮びて、島のいそ御覧みそなわしき。種々くさぐさ海藻[1]さはひ茂ればめたまひき[2]りて名づく。今もしかなり。

訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。

郡家の南の方角30里に藻島の駅家がある。その東南の浜にある碁石は、珠玉のようだ。常陸国からとれるという美しい碁石はこの浜だけから産出する。昔、倭武天皇が舟に乗って、島の磯をご覧になった。そのときいろんな海藻*1がたくさん生い茂っていたので、採ることを禁じなされた*2。よって藻島と名づけた。今でもたくさん生い茂っている。

[註]

  1. [1]海藻:「め」と読ませている。『岩波古語辞典』によれば「め」には「海布」の漢字が宛てられている。この「海布」の「め」は、「モ(藻)の転か」と説明し、「食用の海藻の総称」であると。用例として万葉集の「志賀のあまは藻刈り塩焼き暇無み」をあげる。
  2. [2]禁めたまいき:「禁め」を「しめ」としている。漢字の「禁」には、いましめ・おきて・とじこめる・天子の狩り場・取り締まる・制止する、という意味がある。一方、「しめ」には、占め・標めには、物の所有や土地への立入禁止が社会的に承認されるように、物に何かを結いつけたり、木の枝をその土地に刺したりする意が本来的にあり、そのほか、土地を占有する、自分のものとする、という意味もある。
  3. [1]と[2]から「禁めたまいき」を「海藻の採取を禁じなされた」と訳した。禁じたのは倭武である。

碁石については、多珂郡の項を参照。

遺称地

十王町の伊師町に、目島め じま目島中町め じまなかまち目島中道め じまなかまちなどの小字がある。

藻島の駅家と津 海と陸の輸送拠点がまじわる

日立市域には駅家が2箇所ある。助川とこの藻島である。駅家と港(津)の密接な関連を志田先生は指摘している。蝦夷征討とのかかわりで軍事用の人員・物資の輸送拠点としての駅家と港の重要性を説かれている。

たしかに助川の駅家は江戸時代の会瀬浜にあり、仏の浜も荻津(小木津)の東連津河口にある。この藻島の駅家のすぐ東側の崖下には海がせまっていた。

信太郡の条に「榎浦の津有り。便ち、駅家を置けり」とある。「すなわち」とは「ただちに」という意味である。ヤマト王権が古くからある海上輸送の拠点である津を利用して陸上輸送の拠点である駅家を設けた事例がはっきりと示されている。助川の駅家、仏の浜、藻島の駅家なども同様の機能をもっていたことをうかがわせる「榎浦の津」の記述である。

碁石の浜

余談。風土記には、厳密に言えば「碁石の浜」の記載はない。藻島の駅家の東南の浜に碁石がある、とあるだけで、地名にしていない。江戸時代後期の地誌である小宮山楓軒「水府志料」と雨宮端亭「みちくさ」にもない。碁石の記載すらない。両地誌には川尻村の条に「小貝の浜」はある。「水府志料」の小貝の浜の説明は「数品の小貝夥しく此処に打寄、各色波に洗ひ、落花の敷るが如し」。碁石ではない。小さな貝のことである。

現代において碁石浦とされる海岸がある。伊師浜(江戸時代の村名でもある)にある国民宿舎に面した100メートルもない小さな海岸をさしている(らしい)。近年名づけられたと思われる。時間があったら初出例を探しておきましょう。