多珂郡 たかのこおり
常陸国風土記にある地名由来 日立篇

多珂郡の由来を次のように説明する。

多珂郡たかのこほり。東と南とは並びに大海おほうみ、西と北とは陸奥みちのおく常陸ひたちと二つの国の堺にある高山たかやまなり。古老ふるおきなへらく、「斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇しがのたかあなほのみやにおほやしましらしめししすめらみことみよに、建御狭日命たけみさひのみことちて多珂国造たかのくにのみやつこよさしき。の人初めて至り、地体くにかためぐて、峰さがしくやまたかしと以為おもひて、りて多珂の国と名づけき」といへり。

訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)によった。

多珂郡の東と南は大海に接している。西と北は陸奥と常陸の二つの国境に高い山がつらなっている。古老がいうには「斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇の時代に建御狭日命を多珂国造に任命した。彼がはじめてこの地にやってきて、地勢をめぐりみて、峰はけわしく、山を高く感じたので、多珂国と名づけた」という。

この高い山とは現在は多賀山地と呼ばれている。もっと高い山が連なる山地はほかにいくらでもある。しかしこの地の東は海。海はどこまでも平らで低い。西に目をやるとすごそこに山が迫っている。海との対照が山を高を高く感じさせたということなのであろう。

古墳時代前期に国造が名づけた

斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇は、成務天皇のこととされる。生没年不詳。記紀によれば第13代の天皇。4世紀後半の在位となるが明らかでない。『古事記』によれば、この天皇のときに「定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺、及大縣小縣之縣主也。—大国、小国の国造を定め、また国国の堺を定め、及び大県・小県の県主も定めた」のである。「日本書紀」も同様にこれに類似した話を載せている。風土記の記述と一致しようか。つまり古墳時代前期に多珂国がおかれたが、国造に任命された建御狭日命が多珂国と名づけた、と風土記は言っているのである。

多珂の文字を宛てた理由をしめす

助川(宮田川)から以北の地を、峰はけわしく、山は高い。タカに高の字ではなく、めでたい文字として多珂を宛てたのである。

しかし単に音に文字を宛てただけでなく、意味あいをもたせた。珂には「玉の一種。白瑪瑙・大きな貝」の意味がある。ちなみに玉は「宝石や美しい石の総称」である。風土記多珂郡藻島の地名由来を述べる前段で「藻島駅家の東南の浜にある碁石の色は、珠玉のごとし。いわゆる常陸国にある美しい碁石はこの浜にのみある」という記事をはさんでいる。多珂の文字を宛てた理由を風土記の編纂者は示唆しておきたかったのであろう。

*この項も志田先生の著述に拠りました。