仏の浜 ほとけのはま 
常陸国風土記にある地名由来 日立篇

多珂郡に属する仏の浜の由来を次のように説明する*。

国宰くにのみこともち川原宿禰黒麻呂かはらのすくねくろまろの時に、大海おほうみほとり石壁いはぎしに、観世音菩薩のみかたつくりき。今もり。りて仏浜ほとけのはまなづく。

* 訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。

現代語訳するまでもないだろう。

なぜ観世音菩薩なのか

川原宿禰黒麻呂は、天武天皇14(685)年から持統天皇10(698)年間に常陸国守に任命されている。

なぜこのときに観世音菩薩像が彫られたのだろうか。

飛鳥から奈良時代の仏教には鎮護国家の思想があり、観音を念じれば災厄からまぬかれるという考えがあった。『観音経』には以下のようにある

「観世音菩薩の名を銘記して忘れない者は、たとえ大火に入ったとしても火も焼くことはできない」「人があってまさに害を及ぼされるであろうときに直面して、観世音菩薩の名を唱えたならば、かの振られた刀や杖がずたずたに折れて、難から逃れることを得るだろう」「罪がないのに、鎖、手かせ・罪人をつなぐのに用いる刑具にその身をつながれたとしよう。観世音菩薩の名を唱えたら、すべてことごとく断たれ壊れて、そして難から逃れることを得るだろう」「悪人に追われて金剛山かの観音の力を念じるならば 一本の毛をも失うことはないであろう」「怨みをもった賊が周囲を囲んで 各々刀を持って害を加えることに遭ってもかの観音の力を念じるならば悉く皆その途端に慈悲心をおこすだろう」「凶悪な羅刹、毒龍や諸々の鬼などに遭遇してもかの観音の力を念じるならばその時にことごとくあえて害したりしないだろう」「軍の陣営の中で怖れているときにもかの観音の力を念じるならば多くの恨みはことごとく退散する」

* 加藤康成「対訳妙法蓮華経」第八巻

観世音菩薩は蝦夷 えみし 征討に加わる人びとの信仰を集めたことは疑いない。

川原宿禰黒麻呂が国守退任9年後の和銅2(709)年3月に蝦夷征討がはじまる。遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の兵士が従軍した。

比定地は

志田諄一先生は次のように述べています

この地は陸奥国へ通ずる船が出入りする港のような場所だったと思われる。『常陸国風土記』に唯一の仏教関係の記事として、特筆されているのをみると平凡な場所ではない。小木津の地名は康安2(1362)年の佐竹義篤譲状に「多珂庄南荻津郷」がみえる古い地名。「荻津」は河口の低湿地に「荻」の生えている港とも解釈できる。すると東連津川の河口が注目される。この地が古代に港としての機能をもち、海岸の石壁に観音菩薩像が彫られた。

*志田諄一「道前と観世音菩薩」『ふるさと日立検定 公式テキストブック中級編』(2012年)

茨城県指定文化財となっている仏浜の比定地についてくわしくは、「佛ヶ浜と仏浜」を参照。