仏ヶ浜・仏浜と度志観音

茨城県日立市田尻町字度志前に茨城県の指定をうけた史跡「佛ヶ浜」(この指定名称は、佛は正字が用いられているが、浜は常用漢字)がある。市立田尻小学校の南側の崖地にある。この史跡は和銅年間(708-715)に編纂された「常陸国風土記」にある「仏浜」を、ここに江戸時代にあった度志観音(観泉寺)に比定したうえで、1955年(昭和30)6月に史跡「佛ヶ浜」と指定したのである。

しかしこれには後年異論がでた。永沼義信が「小木津浜の磨崖仏と空久保の五輪塔」[14]が最初で、仏浜は小木津浜の東連津川左岸の河口にある十二体観世音のある場所だと指摘したのである。現在では小木津浜の磨崖仏は1、2体がようやくみえるのみであるが。近年になって永沼同様の異論を耳にすることのある「仏浜」の比定地について検討してみる。

目次


常陸国風土記には

まず仏浜に関して常陸国風土記の記述を『常陸国風土記』(沖森卓也ほか編)[8]によってみる。沖森が拠ったのは、水戸彰考館本の忠実な写本で、最も優れた常陸国風土記のテクストとされる菅政友本[1]である。

その多珂郡の条に

国宰、川原宿禰黒麻呂時、大海之辺石壁、彫造観世音菩薩像。今存矣。因号仏浜。

とある。訓読みすれば

くにのみこともち、かわらのすくねくろまろのときに、おほうみのほとりのいわぎしに、くわんぜおむぼさちのみかたをゑりつくりき。いまもあり。よりてほとけのはまとなづく。

二つの文献

仏ヶ浜の史跡指定を受けるにあたって申請者は、何を根拠にして仏浜を田尻の度志観音があるあたりだと言ったのか。申請者は日高村役場(代表者は村長)、時期は1954年(昭和29)である。日立市への合併が決まっていた時期である。申請書を見ていないので確かなことは言えないが、日高村役場が根拠にしたことをうかがわせる二つの文献がある。

ひとつは、1925年(大正14)に刊行された『多賀郡郷土史』[10]である。度志観音について常陸国風土記をひきながら次のように記述する。

観音堂日高村大字田尻字度志前にあり、境内二百十六坪、信徒六百四十人、宗派真言宗、本尊正観世音、岩壁彫造なり、崩落するも亦形を存して消滅することなし、由緒風土記云、国宰川原宿禰黒麻呂時大海之辺石壁彫造観世音菩薩像今存矣因号仏浜云々、蓋し是れならん、或云弘法大師の作なりと

ここでは度志観音の岩壁に彫られた像を弘法大師の作によるとの説もあることを紹介している。弘法大師空海は宝亀5年(774)生れ、承和2年(835)に没する平安初期の僧である。風土記の編纂から百数十年ほどたってからのことである。

もうひとつは、日高村が日立市に合併する直前の1954年(昭和29)、つまり指定申請年に発行された『日高郷土史』[11]である。『日高郷土史』は風土記の記事を紹介しながら

田尻については、やはり常陸風土記に国宰川原の宿禰黒麿の時大海のほとりの岩壁に観世音菩薩の像が彫つてあつてそのために此の浜を仏浜と言つていると記載されてあるのを考えるとこの常陸風土記の出来る一二〇〇年も前に既に度忘観(ママ)音の石彫りはあつたのである。*

この根拠として風土記の本文を記載し、続けて

註 曰按仏浜未詳其所在或曰田尻村山中岩窟彫刻之度志観音像蓋是也

と引用している。この『日高郷土史』が引用する註は、出典を記していない。

*「風土記の出来る一二〇〇年前に既に度志観音の石彫りはあった」という表現に少しの間混乱させられた。風土記が成立する8世紀のさらに1200年前の川原宿禰黒麻呂の時代に観音像が彫ってあったのか? そうではなくて、今から1200年前の常陸國風土記が書かれたときにはすでに観音像は彫られていた、と理解するのに少々時間がかかった。

仏浜=度志観音説の由来は

しかし『日高郷土史』が紹介する註の出所らしきものがある。それは天保10年(1839)に刊行された西野宣明校訂による『常陸國風土記』(西野本)[2]である。この本の仏浜の記述の頭註に次のようにある。

按佛濱未詳其所在、或曰田尻村ノ山中ニ岩窟所彫刻之度志観音像蓋是也、鍋田三善云今陸奥國楢葉郡有佛濱村蓋是也

『日高郷土史』が紹介する註は「鍋田三善云」以下を落としているが、それ以外はほぼ同じである。ちなみに鍋田の言う仏浜村は陸奥国楢葉郡にあり、1889年に隣村と合併し、富岡村となり、現在は福島県双葉郡富岡町である。この鍋田の比定は位置関係からいって問題にならない。

西野本は広く刊行されたので、『日高郷土史』が参照したものはこれでなかろうか。

また幕末、潮来の郷士で学者である宮本元球(茶村)が『常陸誌料 郡郷考』[3]の中で風土記の仏浜の条をひいて「この石像、今村中 観泉寺境内 にあり」と書いている。観泉寺は度志観音のことである。『郡郷考』も幕末に刊行されているので、『日高郷土史』は見ているかもしれない。

あるいは栗田寛が西野本を頭註を含めて収録している『標注 古風土記』[4]を読んでいたかもしれない。栗田は、水戸生れ、彰考館に出仕し、のちに帝国大学文科大学教授となった歴史学者である。

仏浜=度志観音説の再検討

再検討のために、まず常陸国風土記の記載順をみてみる。多珂郡においては、飽田村-仏浜-藻島駅家という順序である。久慈郡における沿岸部の記載はどうなっているか。高市-密筑里-助川駅家という順になっている。これから言えることは、風土記の日立市域における記述は、南から北へむかっている、あるいは「下り」の方向にあるとみるのが妥当だろう。

とするなら、仏浜は飽田村と藻島駅家との間にあるということになる。飽田村は相田町に、藻島駅家は十王町伊師町に比定されており、異論はない。ところが度志観音のある田尻は相田の南にあり、順路がくるってくる。冒頭で紹介した永沼説の小木津浜は順路内に収まるのである。

また「大海之辺」という記述に関して、度志観音の標高についてみてみよう。度志観音のある南側の水田(現在は住宅地)は標高10メートルほどある。縄文時代前期、温暖化による海進があって現在より3~5メートルほど海水面を押しあげたという。縄文海進から数千年後の風土記の時代においてなら、なおさら海辺から西方内陸部に1キロメートルほど入ったところにある度志観音は「大海之辺」にはほど遠い。「往事は海が深く湾入されていて、この地まで波が寄せていたと推定される」という『茨城の文化財 第二集』[12]の説明は、少々無理があるのではないか。といっても縄文海進が知られるようになったのは、この30年ほどのことであるので、指定当時とすれば可能な推定ではある。

ともかく永沼が比定した小木津浜の十二体観世音は海辺から100メートルもないところにある。たしかに「大海之辺」である。

現代においてこの二つの点においてみるならば、仏浜=度志観音は少々無理がある。ただし県指定の名称は「佛ヶ浜(度志観音を含む)」とある。また指定範囲は地番表示などせずに限定していないところを考えると、度志観音を含む広い範囲を仏浜としている、のだと解釈してもやはり無理があろう。度志観音と小木津浜間は直線にして約3キロメートルほどある。

ちなみに指定後の1959年に刊行された『日立市史』[13]は、通史篇(126頁)では仏教流入時期を示唆するものとして観世音菩薩像が海岸のほとりの岩壁に彫ったことが引用されるのみで、現在地の比定すらしていない。この部分の筆者(ちなみに志田諄一先生)は、場所の比定に無関心であった。ただし文化財篇(893頁)において「度志観音は…度志前というところにある。小丘の中腹に露出する岩壁に彫られた正観音を本尊とし、度志前観音堂といったが…(常陸風土記に記されている仏浜の)観音像とは度志観音であるともいわれている。…なお仏浜は度志観音を含めて、昭和三〇年六月二五日茨城県の文化財史跡に指定された」と実にそっけなく、よそよそしい記述である。『日立市史』も疑問を払拭できなかったのであろうか。

 左:小木津町東連津川河口   右:左の写真の矢印の位置にある磨崖仏

奈良時代のことである。1300年前の一片の記述を元に確定的に言うことはむずかしい。考古学的に遺構と遺物が発見されてはじめて確定的なことが言えることである。そのようなわけで本稿は仏浜の比定地を決定づけようとする目的はない。むしろ関心は次の項である。

度志観音説が採用された理由

地元に仏浜の伝説がふるくからあったのではない。江戸時代にすくなくとも二人の歴史学者が仏浜=度志観音とあてていたにすぎない。そのほかに度志観音のほかに福島県富岡町の仏浜説もあったし、度志観音の磨崖仏は弘法大師の作だという伝説もあった。にもかかわらず、仏浜に度志観音が宛てられた理由とはなんだろうか。

江戸時代の小宮山楓軒「水府志料」や雨宮端亭「みちくさ」に度志観音や仏浜の記載はない。その他の旅日記などに度志観音はでてきても、仏浜についての記載はない。江戸時代においては仏浜の場所を特定できていなかったのである。というか常陸国風土記はきわめて一部の学者にしか知られていなかった。つまり常陸国風土記の研究史はないに等しかった。幕末になって初めて西野が「仏浜は度志観音があるところだ」と言い出したことなのである(その後宮本元球も言っているが、西野を参照したうえで言っているはず)。西野は現地を歩いたのだろうか。歩いていれば、あるいは土地鑑のある人物に尋ねていれば、別の書きようがあっただろうにと思う。

しかし『日高郷土史』が西野説を簡単に採用してしまったことに疑問が残る。『日高郷土史』の著者は地元の研究者である。小木津浜の磨崖仏を知らなかったとしても、風土記に記載された仏浜の位置関係はすぐに思い浮かんだはずだ。西野、宮本の説のあやうさに気付いたに違いない。にもかかわらず、度志観音を仏浜にあてたのはなぜか。

彼に御国自慢的な発想がなかったとは言い切れまい。はるか古代の風土記に記された地を現在の地に比定するという冒険によって得られるものへの誘惑に負けてしまった。指定時において、度志観音の土地所有者でさえ「風土記にある岩窟は別の所にあるものではないか」と県の審議官に言っていたのにもかかわらず。…はやりすぎたかのかもしれない。

しかし一部地元の異論を押し切ることができたのは、西野説を採用した帝国大学文科大学(東京大学)教授の栗田寛の著書[4]が裏付けとなっていたかもしれない。また『大日本地名辞書』[9]が宮本の説を「郡郷考、仏浜の石像、今観泉寺に在り」として採用していたことも後押ししたかもしれない。

著者は迷っていた。しかし郷土史の編纂にあたって役場から要望されていること、村民から期待されていることを感じとったのだろう。その期待に応えたい、と思った。素直な感情だろう。村史の編纂事業を委託されるほどの人物なら自然と湧いてくる思いだろう。それらを後押ししたのが、弘道館の学者西野、水戸藩郷士で学者の宮本、東大教授の栗田、『大日本地名辞書』の吉田らの「権威」であると言ってよい。

村の要望、村民の期待とは。日高村は日立市への吸収合併が翌年(1955年)にせまっていた。県指定の文化財があれば、新興都市日立市に吸収されたあとでも住民の「誇り」が保たれる(地域が誇りを求める時、それはその地域が自信を失いつつあるときです)。日高村の当局者にこんな意図があったとしても不思議ではない。それに『日高郷土史』の著者が過剰にかつ親切に反応したのではないか。推測である。

附録 水府志料附録にみる度志観音の磨崖仏

先に、小宮山楓軒「水府志料」には度志観音及び仏浜の記述はないとしたが、「水府志料 附録 巻之二十三」に度志観音の磨崖仏について記述があるので次に紹介する(附録のすべては『茨城県史料 近世地誌編』所収の「水府志料」には翻刻されていない。茨城県立歴史館公開の写真版によった。原本は国立国会図書館蔵)。田尻村から度志観音の磨崖仏について報告があったが、小宮山が弘法大師が彫ったという話に疑問ありとして本編に掲載しなかったものである。附録には本編に収録されなかった記録が数多く収めらている。

23巻の目次には「多賀郡/田尻佛像」とあり、本文は以下の通り。

   田尻村
田尻村ノ岩ニ切付候佛像之儀、御聞被成度旨、右ハ青龍山
観泉寺真言山中ニ有之由、度志観音と申、弘法大師岩屋へ
切付候由申傳へ候。未タ一見不致候。先日藤田次郎左衛門
より右佛像ハ弘法よりも古き由糺呉候様願ニ付、右近村老
人抔所々承□候處、一向ニ相わかり不申候。宮田ノ大雄院
入院ノセツハ先ツ右觀音へ参詣致候様ニ及承申候。此儀ハ
聢と不致候、佛像古之趣ハ相違無之候、以上
   四月十日          川瀬七郎衛門
    小宮山次郎衛門様

差出人の川瀬は文政9年(1826)7月に田尻村を管轄する石神組郡奉行に任じられている(『水戸の先人たち』)。宛先の小宮山次郎衛門は楓軒のこと。すなわち楓軒が村からあがってきた報告に疑問をいだき、管轄の郡奉行である川瀬に調査を依頼し、その返答が上の文であると考えられる。文中にある藤田次郎左衛門は藤田幽谷のこと。

現代語訳すれば、次のようになるでしょうか。

─田尻村の岩に彫られている仏像についてお尋ねがありましたが、これは真言宗青龍山観泉寺の山中にあるとのこと、度志観音といい、弘法大師が岩にできた穴に彫ったものだと言い伝えがあります。まだ見てませんが。先日藤田幽谷からこの仏像は弘法大師以前のものであり、調査してほしいとの願いがあり、近在の古老などにいろいろと話を聞いたのですが、一向にわかりません。なお宮田村の大雄院に僧侶が着任する時に、まずこの観音に参詣することになっている、とは聞いていません。これらの件については確かなことはわかりません。ただ仏像は古いおもむきがあることはたしかです。

あやしげなことは本に載せない、疑問があれば現地に調査を依頼する小宮山楓軒、わからないことはわからないと報告する川瀬七郎衛門、きわめて科学的な態度である。そして空海よりさらに遡ろうとする(おそらく風土記に結びつけたい)幽谷。この短い文書からもいろんなことが想像できる。[この項追記 2021-07-21]

ほとけがはま・ほとけのはま

もうひとつ、わからないことがある。「常陸国風土記」を紹介する[12]を除くすべての史料・文献は「仏浜」と表記しており、県の教育委員会だけが「仏ヶ浜」としているのである。

また傍訓を付している[2][4][6][8][13]はすべて「ほとけはま」としている。「ほとけはま」ではない。いつ、だれが、「ほとけがはま」と言い出し、「仏ヶ浜」と表記したのだろうか。確認できるのは、茨城県の史跡として指定されてからのことのようであるが(『日立市史』は仏浜としている)、どのような理由からか、わからない。

なぜ「の」なのか。たとえば、常陸国、久慈郡、密筑里、多珂郡、藻島駅家…。これらは「ひたちのくに、くじのこおり、みつきのさと、たがのこおり、めしまのうまや」。固有名詞と一般名詞がつながるとき「の」でむすぶというルールがあるらしい。例はふさわしくないが、仏浜は似たようなものではないか。本稿ではこれ以上立ち入ることはしない。国語学の分野なのだろうか、専門のかたのご教示を得たいものである。

わからないことだらけである。

表記と読みについて提案

「ほとけのはま」」の表記は、佛濱、仏浜、「ほとけがはま」は佛ヶ浜、仏ヶ浜、とさまざまである。「ヶ」を入れるのやめて、佛濱、仏浜(正字を使おうが異体字を使おうがいずれも可)とし、やわらかに響く「ほとけのはま」とよむのはどうだろうか。

テクストと参考文献

テクスト

参考文献

その他参考文献