史料 田中内村の地名・字名考

大内勘衛門「田中内村地名考・字名考」

天保14年(1843)、常陸国久慈郡大橋村と田中内村(いずれも現日立市)とは合併して大和田村となります。新しい村名には、大橋の大と田中内の田を和をもってつなぐ、そうした意味があるといいます。合村前の田中内村の地名・字名の由来について、江戸時代に田中内村の大内勘衛門が検討を加えている古文書を大和田町大内家文書「田中々邨役儀前録」の中に見つけました。ここに紹介します。
 この記事が書かれた時期は前後の記述からみて文化年間(1804—18)と考えられます。

凡例

地名考

字名考

変化する字名

上記文化年間の大内勘衛門「字名考」にある字名と天保検地後の際に作成されたと考えられる「久慈郡大和田村田畑反別絵図」(慶応3年写 日立市郷土博物館蔵)と1957年「日立市域旧町村大字別小地名一覧」(千葉忠也『史料による日立市域の町村分合』)の字名と対比してみる(—は記載なし)

以前文化年間天保検地1957年
田河内高内
新地荒ち
穴田穴田穴田
満江地萬ヶ内萬ヶ内
堅町辰町辰町辰町
諏訪河原諏訪河原諏訪ヶ原
七石七石七石
いかつち雷土雷土
出来る穂内 てくるほ内テクルホウチデクルボ
□河内あかふち前
新呉あらく
栖いた笠井田笠井田笠井田
屋し内前
十二所十二所十二所
犬飼犬飼犬飼
田島
和尚塚和尚塚和尚塚
道場内道場内道場内
町田町田町田
細谷細谷細谷
下宿
かに屋敷屋敷蟹屋敷
本宮本宮本宮
五升塚
新橋川へり
新家アラヤ東新地
関場
二町田二町田
落見落見
しんか
西原西原
東宿東宿
西宿西宿

文化年間と慶応3年の間に大きな変化があったことがわかる。それは両時期にはさまれる天保期の水戸藩総領検地によって、字名と字界の変更、整理がなされたことをうかがえる。そして明治初年の地租改正による地籍調査をふまえた1957年の「小地名一覧」まで大きな変化はない。

地名もまた変化するものである。どれが正しい表記かという問が無意味であることをこれらの変化をみればわかることである。

地名研究

文化文政期は、水戸藩領においても「郷土」への歴史や地理への関心が高まり、高倉逸斎「水府地理温故録」のほかに水戸の町人の栗田栗隠、加藤松羅らが研究の成果を形にしていた。また小宮山楓軒がまとめた水戸領内の地誌「水府志料」の基礎資料の提出が村に命じられた時期(文化2年)とも重なる。

郷士大内勘衛門が自らが住む田中内村の地名の由来を書き著したのも、そういう時期であった。

この大内勘衛門の地名・字名考は、日立市域において初の地名研究ではないだろうか。