史料 日露戦争従軍兵士の手紙 2



関秋之介の軍事郵便

軍事郵便

1904(明治37)年2月、日露戦争が始まりました。これに従軍した多賀郡日高村田尻の関秋之介が戦地から故郷の父親直次郎宛にはがきや手紙を送ってきました。それらは軍事郵便とよばれるもので、戦争中に戦地から軍人がだした郵便で無料でした。関秋之介のものは8通が残されています(田尻町関和昌さん所蔵)。

8通の軍事郵便は外観上4種類に分けらます。第1ははがきで、大きさ142×89mm。第2は郵便書簡で、封筒兼用の便箋のようなものです。大きさ157×83mm。内側に絵が描かれています。陸軍恤兵(じゅつへい)部の需(もと)め応じ、「頼章」が描き、「明治三十七年日露戦役ニ方リ従軍軍人ニ頒ツ為メ之ヲ製ス 陸軍恤兵部」と制作意図と制作者が示されています。第3には絵のない郵便書簡(149×78mm)です。第4は封書です。封筒は201×78mmの大きさがあり、裏と便箋には「寄贈 出征軍人 東京日本橋区元浜町十二番地鈴木商店太物商 鈴木丑之助」と印刷されています。広告入りというわけです。

関秋之介のこと

関秋之介は1883(明治16)年9月茨城県多賀郡日高村生まれ。日高尋常高等小学校から豊浦町他二ケ村組合高等小学校、同校補習科を経て1902(明治35)年19歳のとき日本鉄道(株)運輸課に採用されます。翌年7月徴兵検査を受け、同年12月15日佐倉歩兵第2聯隊第11中隊へ入営します。

父への手紙

1904(明治37)年11月6日、父直次郎に「イクサニユクスグコイ」と面会を求める電報が届きます。秋之介の隊は旅順攻撃のため編成された第三軍(司令官乃木希典)に属しました。直次郎にあてた1905年2月15日第三軍消印の郵便書簡には「行軍中わ日一日と旅順方向に比すれば寒気増加致し、防寒用外套の襟に毛の付有るにいき吹きかゝれば忽ち氷りとなり、ひげある者わひげに氷りさがり、手は自由を失ひ、尿せんとすればきん釦(ぼたん)を取るをえず、飯を食わんとすれば之また凍りて食するを得ず」とあります。

1905年2月24日の封書には「愈々(いよいよ)今沙河方面も近々第三軍総攻撃を開初する筈にて候、小生無論攻撃にわ参加致し申すべく、無事戦闘を終れば直ちに書面差上べく、尤攻撃後一ヶ月も通知書なき時わ負傷若しくわ戦死と思召し被下度、先わ戦闘前一御しらせ申し候」と書いています。

秋之介は3月1日から始まる奉天会戦に加わり、10日日本軍は奉天を占領しますが、秋之介はその前日9日に戦死します。

1年余に及ぶ日露戦争はその後9月アメリカのポーツマスで講和条約が結ばれ終ります。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第64号より

もうひとつの「日露戦争従軍兵士の手紙」