日立市の戦災


1トン爆弾攻撃で煙をあげる日立製作所海岸工場 1945年6月10日


1トン爆弾の一撃を受けた日立製作所海岸工場水銀整流器工場  撮影:1945年10月


日立製作所山手工場 艦砲射撃で壊された鋳造工場  撮影:1945年10月

日立市の戦災と戦時下の生活をテーマにした本

軍需産業都市

1929年(昭和4)日立製作所は、助川町に海岸工場の建設を始めた。31年に起こった満州事変以後、経済の好転にともない、海岸工場はしだいに拡張され、日立製作所の中心工場となっていった。そして日本の機械工業の軍需産業化により、39年以降日立工場(山手・電線・海岸工場からなる)をはじめ39年設立の多賀工場など日立製作所の諸工場は軍需生産へと転換していった。

海岸工場は、日本有数の発電設備生産工場だったが、航空機の関連部品や高射砲、対戦車砲などの軍需品の製造にかかわっていた。さらに発電設備の多く、例えばモーターや発電機の9割近くが軍に納入されるなど、一般製品も大半が軍に納められていた。また、日本有数の銅山に成長していた日立鉱山においても、アメリカによる金属類の対日禁輸措置により、国産の金属、とりわけ軍需品にとって欠かせない銅の需要が高まり、銅の増産が求められ、その需要に応えていった。

こうして日立市域は、戦時下に入って軍需工業地帯として大きく発展していく。

空襲のあらまし

1944年(昭和19)11月に入ると、アメリカ軍による日本本上への空襲が本格化する。爆撃機B29の第一の任務は発動機製作所、飛行機部品製作所、そしてその組立工場など軍需工場の破壊であり、さらに港湾や都市の爆撃であった。東京、名古屋、大阪、神戸など大都市の軍需工場を目標とした高性能爆弾による攻撃が行われた。ついで焼夷弾による無差別爆撃が行われた。それは日本の軍需産業を基底において支えているのが都市の中小零細工場であるというアメリカ軍の認識であった。45年3月の束京空襲では10万人もの人が死亡した。東京に続いて10日間の間に名古屋、大阪、神戸など大都市への焼夷弾攻撃が相次いだ。

大都市が焦土と化すとアメリカ軍の攻撃目標は地方の中小都市に移った。

1トン爆弾投下

1945年6月10日朝、日立製作所海岸工場は、100機を超えるB29の1トン爆弾806発(アメリカ軍記録)の攻撃をあびた。海岸工場の建屋は9割以上が破壊された。この日振替休日で出勤者は少なかった。しかし、634人もの従業員及び動員されていた学徒らが亡くなった。爆弾は隣接する地域にも落下し、一般市民のなかにも死者をだした。

艦砲射撃

翌月7月17日の深夜、日立市域は5隻の戦艦、2隻の軽巡洋艦、9隻の駆逐艦からなるアメリカ艦隊の砲撃を受けた(駆逐艦は砲撃はしていない)。午後11時14分から砲撃が始まり、二十数分間のできごとであった。砲撃目標となったのは、旧日立市では日立製作所山手工場・電線工場、日立鉱山の電錬工場、多賀町では日立製作所多賀工場で、合計870発の16インチ砲弾が打ち込まれた。6月10日のB29による爆撃を受けた日立製作所日立工場は目標から除かれていた。当夜は雲が低くたれこめ、雨が降っていた。アメリカ軍は、弾着観測や照明用航空機の支援もなく、砲撃を始めたのであった。山手工場めがけて89発、日立鉱山電錬工場に125発、電線工場に126発、多賀工場には530発が撃ちこまれたが、山手工場敷地内に4発、電錬工場に8発、電線工場に命中弾はなく、多賀工場には工場建屋を直撃したのは25発であった。多くの砲弾は標的を外れ、周辺の住宅地や山林で破裂したのである。旧日立市では317入、多賀町では119人の死者をだした。

焼夷弾投下

そして、7月19日の深夜11時20分から翌20日午前0時53分にかけて、日立市域はマリアナ基地からから飛び立った127機のB29の焼夷弾攻撃を受けた。合計1万3900発、960トン余の焼夷弾が投下された。旧日立市の市街地の6割以上が焼失し、多賀町や豊浦町、久慈町にも焼夷弾は投下され、多くの家が焼失した。

被害の概要

6月10日空襲 1トン爆弾攻撃

旧日立市
死者 886人
重軽傷者 716人
行方不明 29人
全壊戸数 1486戸

*半壊戸数866戸 *日立製作所分を除く

7月17日 艦砲射撃

旧日立市
死者 317人
重軽傷者 376人
行方不明 9人
全壊戸数 637戸
半壊戸数 1059戸
多賀町
死者 101人
重軽傷者 34人
滅失家屋 97棟
毀損家屋 202棟
住宅以外の滅失建物 30棟
住宅以外の毀損建物 34棟

[註]日立製作所多賀工場で、社工員31、女子挺身隊22、女子学徒3人合計56人が亡くなっている(『多賀工場十年史』)。また、多賀町が1946年(昭和21)7月の慰霊祭に際して作成した「戦災死亡者名簿」によると全体で120人、その内被災日が7月17日となっているのは119人。増加分には工場関係者の内多賀町居住従業員が含まれていると推定される。

7月19日空襲 焼夷弾攻撃

旧日立市
死者 63人
重軽傷者 101人
行方不明
全焼家屋 1万478戸
半焼家屋 214戸
多賀町
死者 2人
重軽傷者 2人
滅失住宅 245棟
毀損住宅 71棟
住宅以外の滅失建物 92棟
毀損建物 5棟

[註]そのほか、日立製作所多賀工場場従業員25人が自宅その他で死亡している。

豊浦町…国道に沿った海よりの地区が焼失した。

その他、空襲による死者

久慈町 14人
豊浦町 12人
坂本村 6人
日高村 7人

旧日立市での死者数について

旧日立市について上記3項目の死者数を合計すると1266人となるが、この数値は1949年発行の『日立市勢要覧 昭和二十四年版』に登載されているものと同じである。1950年9月の市主催の慰霊祭における名簿には1354人の死亡者が記録されている。その後死亡が確認されて、追加されたものであろうか。

『日立戦災史』より

旧日立市戦災図

旧日立市(日立町と助川町)の戦災地図が国立公文書館デジタルアーカイブに「戦災概況図日立」として公開されています。