弁天様のため池

大窪いの 日立市助川町

この写真[省略]は、水戸にいる私の妹がもっていたものです。当時(大正の末ごろ)妹は諏訪台の鉱山社宅にいたので、鉱山関係の人たちがうつっているのでしょうか。池の向こうにみえる橋の左の二階家は、泉楼という料理屋です。右手に大きな屋根だけみえているのは、たぶん吉村食堂ですね。そこはちょうど、いまの市役所の東隅にあたりましょうか。池のふちにエノキが1本みえますが、この辺り一帯は池を含めて全部、市役所の敷地になっています。

私たちが、牧場ごとここへ引越してきたのは大正6年のことです。その当時、ここは田んぽでした。池のほとりに弁天様をまつった祠があったので、この池は弁天様のため(溜)と呼ばれていました。このため池は、もともと農業用水を目的としたもので、いまの市民会館の辺り一帯の田んぼのほうへ、池からの用水が流れていました。

ため池にはコイやフナ、ウナギ、エビなどがいて、地曳網で2尺、3尺もあるようなコイをとったこともありました。夏になると、この周辺は釣りの人びとで大変にぎわったものです。でも、もく(藻草)があったり、深かったりで、水浴びは危険でしたね。

とにかく水がきれいで、小さなフナが群れをなして泳いでいるのがよく見えました。エビもたくさんいて、これをとって生業としていた家が2軒もあったほどです。このエビは、タイの餌にするといって、会瀬から漁師のひとがよく買いにきたものです。

大水増しもたびたびありました。ここへ越してきて間もなく、夜中に大雨が降って、畳がもちあがってきて、大水増しに気づいたことがありました。このときは、ため池は満水となり、私の家は床上浸水で、牛たちの腹まで水につかりました。

ため池の埋め立てが始まったのは、いつごろからだったでしょうか。なんでも電線工場から出る石炭の燃えヵスが、毎日、馬車で10台、20台と運ばれてきたものです。埋立てた跡にりっぱな市役所がたったのは昭和17年でした。ここへ来て60年の間に、この周辺は随分と変わってしまったものですね。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第5号(1979年)