鮎川河口のプール

島崎巌 日立市東成沢町

鮎川浜に、鮎川の河口をせきとめて、プールができたのは、昭和7年の夏のことです。

当時、鮎川浜は、焼石の湯が胃腸病にきく湯治場として知られており、その湯をわかし、湯治客をとめる旅館が、私のところの鮎川楼など6軒ほどありました。焼石の湯というのは、くみあげた潮水に、焼いた石をいれてわかすんですが、大変な重労働でした。でも、湯治客は一年中ひっきりなしにあり、はりあいがありました。

それが、大正12年の関東大農災のあと、めっきり客足がへってしまったんですよ。震災後の不況のせいでしょうかね。旅館としては、大打撃でしたが、しかし、昭和にはいっても、不景気はますますひどくなるばかりで……。

そこに、うまい考えのきっかけとなったのが、昭和7年のロサンゼルス・オリンピックでした。日本水泳選手が大活躍で、不景気のくらさを吹き飛ばすような歓声にわきたちました。この「水泳日本」の人気にあやかり、鮎川の河口をせきとめ、プールをつくり、人をよぼうと考えたんですよ。

旅館組合をつくり、県の許可をとりましたが、工事費がかさむので、寄付をつのりました。せきとめる方法は、河口に4メートル間隔にコンクリートの柱を立て、その間に12センチ角の杉材を、サネハギというやり方で重ねました。その基礎部の造作に一番苦労しましたが、できあがったプールは幅15メートル、深さ1.7メートル、長さ70メートルという大きなものでした。さいわいこれが大評判となり、夏場の鮎川浜は、これまでにないにぎわいをとりもどしました。子どもや工場勤めの若い人ばかりでなく、家族づれも多かったですから、旅館の利用者もふえたわけです。夜も電気をつけて、泳げるようにし、また8月10日には、砂浜にやぐらを立て、盆踊り大会もやりました。

こうして、戦争が激しくなるころまで続けましたが、プール開きは、毎年7月20日ころ、しまうのは、8月31日でした。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第8号(1980年)