石炭と塩 黎明期の石炭産業(1)

島崎和夫

目次

臭気を獣が嫌う

水戸藩の松岡郡奉行であった久方蘭渓の「松岡郡鑑」[1]の秋山村(高萩市)の条に次のようにある。

享保三戌⼆⽉、新湯の辺にぶんとふ岩として、薪に成候岩有之、珍敷品に候間、⼊上覧候様申来差上候

享保3年(1718)2月に水戸藩松岡郡(東郡)秋山村内の新湯という地にぶんどう岩といって薪の代りになる岩があり、珍品なので殿様に見せるよう言ってきたので、献上した。

享保3年のこの記録が水戸藩領における石炭の初出である。

ついで⽂化4年(1807)の「⽔府志料」[2]の多賀郡⼭部村(日立市)の条に次のようにある。

⿊炭⽯ 岩ヶ作と云処に在り、或云、⽯炭なり、⽕中に投すれハ悉く燃ゆ、臭気あり、よく⿏を去らしむと云ふ

岩ヶ作というのは、日立市立山部小学校の北側にある字である。

文化7年(1810)「松岡地理誌」[3]の秋山村(高萩市)の条に次のようにある。

燃土
其色黒クシテ炭ノ如シ、里人クンドン岩ト云 〈隣村山部ノ地ニモアリ〉是ヲ焼ハ臭シ、其臭気獣ノ類甚タ嫌フト云

村人がクンドン岩と言っている燃える石が、隣りの山部村にもある。色は黒く、焼くと臭く、獣は嫌うという。

18世紀初頭には薪の代りになる石として認識されていたものの、百年ほど経過したこの時点においても石炭は、燃やすとその臭いを鼠や獣が嫌うものという認識にとどまり、害獣対策にも用いられていなかったようである。村に鉄砲を持つ猟師はおり、また鼠よけのために燃やすのも現実的ではない、また燃料として薪の代りにもなりえなかった。当時の石炭の採取は表層的なものにとどまり、炭質は劣り、火力も薪に劣っていたということであろう。ともかく臭い、これがこの時代の産炭地においてさえ石炭普及を阻んでいた。

 註

  1. [1]松岡郡鑑:宝暦13年(1763)成立。鷺松四郎「松岡領における⽯炭採掘について」『茨城史林』第3号による。
  2. [2]『茨城県史料 近世地誌編』による。
  3. [3]『北茨城市史 別巻3 石炭史料1』による。

神永喜八と塩

常陸国多賀郡の北部、陸奥国磐城郡との境に近くに上小津田村(北茨城市華川町)がある。この地一帯は水戸藩領ではなく、幕府領と複数の旗本領が一村内に入り交じる相給の村が広がる非領国地域である。

嘉永4年(1851)上小津田村の名主神永喜八と宇佐美吉十郎は江戸深川扇橋町(東京都江東区)長谷川與惣次の代理人松本源兵衛の訪問を受けた。下総国行徳浜の塩焚きに石炭を使用したいとの申し入れであった。神永らは幕府代官所や旗本たちの許可を得て、そして松本は上小津田村字塩の平に開坑した。しかし掘り出してみると質が悪く、花園川対岸の小豆畑村(北茨城市)芳の目に移し開坑した。そこで300俵を採掘し、磯原村河岸へ駄送し、同海岸から江戸へ廻漕した。それを見届けて松本は江戸に戻った[4]

この時点において神永は石炭採掘事業に手を染めていない[5]。しかし採掘作業を目の当たりにし、多くのことを学んだであろう。

  1. [4]「石炭発見並に数十年採掘記事」 山野好恭ほか編『常磐炭礦誌』1916年刊(1975年復刻版による)
  2. [5]『福島県史 18 産業経済1』(1970年刊 917頁)及び『北茨城市史 上巻』(1988年刊 588頁)では、行徳浜の塩焚き用石炭の採掘を神永自身が請負ったと記述しているが、出典が示されていない。かつ福島県史の当該部分の執筆者はのち『いわき市史 別巻 常磐炭田史』(1989年刊)においてこの記述はしてない。そうした点において「神永氏より聴取して」まとめられたという上記「石炭発見並に数十年採掘記事」に拠った。江戸の長谷川は炭薪問屋で、代理人松本は石炭採掘を業とするものであろうか。この「石炭発見並に…」は、全文をこちら 神永喜八の石炭事業 にテキスト化してある。

水戸領の塩と石炭

江戸時代、水戸領を含む常陸国の海浜では、広く製塩が行われてきた。しかし自然条件は十州地方に比較してきわめて劣悪であった。生産効率は低く、品質は劣り、かつ価格は十州、瀬戸内地方のものを上回っていた。

そうであっても、自給できるものは自給する、というのがこの時代である。政策しだいで塩の流通を止めることは可能である。政治にとって塩は安全保障の道具たりえるものである。文政10年(1827)陸奥を旅した小宮山楓軒は松島において「塩浜アルヲ見ル…仙臺領中私ニ鹽ヲ販クコトヲユルサズ。凡塩⼾ノ製造スルモノ皆公ニ収ム。村々⼈⼝ニ従イコレヲ配分ス…春秋⼆度コノコトアリ、其他ハコノ問屋ヨリ買フコトト⾒ユ。コレヲ以テ侯家ノ利トスルナルベケレド、塩⾊モ潔キヨカラズ。其品下レリ…我邦ニテ⾚穂、才⽥ノ良塩潔⽩ナルヲ⾃由ニ賣買スルニ⽐スベカラズ。サレド遠産ハ萬⼀海運滞ルノ患アリ」と言う[6]。仙台藩領では塩はすべて藩に納められ、村人は家族数に応じて春秋の二度分配を受ける。それ以外の塩は問屋に卸され、販売される。つまり藩による塩の専売制が布かれている。塩は白くなく、品質もよくない。水戸領では高品質の赤穂・斎田が自由に販売され、手に入る。しかし遠隔地から運ばれてくる塩はいったん海運が途絶えてしまえば、入手できなくなる不安がある、と小宮山は指摘するのである。

天保8年(1837)、水戸藩主徳川斉昭は「鹽の義ハ五穀同様⼀⽇もなくて不叶品」であることを理由に⽔⼾領内すべての浜での製塩を命じている[7]

常陸国の製塩は揚浜法による。十州の入浜式ではない。海水を人手で汲み上げ、砂浜に撒くという作業を繰り返し、砂についた塩の結晶を砂ごとかき集めて海水をそそぎ濃い海水(鹹水)をとる。鹹水を釜で煮て、塩をとる。釜で煮つめるとき多くの燃料(薪)を消費する。近隣の山林からの薪では不足を来たすことがあった。

水戸藩の坂場流謙「国⽤秘録」(文化年間後半成立)に次のようにある[8]

仙臺領⼤船(渡)村ニて海⽔を砂漉ニせずして直ニ塩釜へ海より樋ニて汲⼊て塩に煮詰ル也。然れ共薪多くかゝりて常陸国抔ニてハ薪代へ被引損也。ごく⼭中の海ぎしニて薪乍伐取塩煮場あらば此仕⽅も可ならんか

海水を汲み上げ、砂浜に撒かずに釜に直接入れて煮つめる方法がある(直煮法)。人手はかからないものの、薪を多く必要とするので、常陸国では損することになる。周りを山に囲まれた浜辺の塩場なら可能かもしれない、と坂場は言う。燃料代が損益を分けると。

石炭

水戸藩領において石炭をはじめ地下資源は百姓所持地にあろうと共有地であろうと藩が所有するものと認識されていた。かつ石炭は国産専売品として採掘から販売は藩の統制下にあった[9]

水戸藩領ではないが、幕府領・旗本領が入り交じる小豆畑村における石炭の採掘・販売に際しての注意書きが、旗本の一人秋山氏から安政7年(1860)正月に示された〈史料1〉。

(1)採掘地は田畑永荒地または山中の陰地など無年貢地であること。(2)往来、川沿い、用水施設など田畑の耕作に支障を来さないこと。(3)販売先は他領でもよい。(4)自分の利益だけを考えてはならない。村全体が豊かになるように心がけよ。(5)石炭販売額の2割を運上として旗本へ納め、残りはトラブルがないよう関係者で分けること。大要は以上である。水戸藩の場合、販売までを藩が管理・指定する。販売先も藩が決める。したがって運上金は課せられないが、他の規定は水戸藩領においても同様であったろう。

事例1 文久元年(1862)2月、下総国香取郡小堀村の喜平次が塩焚きに石炭を用いたいと水戸藩に願い出てきた。喜平次は仙台領(福島県新地町〜岩手県大船渡市)で製塩を行なっていた。そこでの経験をもとに「石炭ニ荒塩を焚候ヘハ利分も強、第一山林ヲ伐取不申相済候」と考えたのである。場所は伊師村の浜辺で、石炭のある山部村にも近い。この願いをうけた郡奉行所の役人は地元の山横目に村の利益にもなることであるので、村に支障がなければ、塩も高値の時期でもあるので、許可したいと言ってきたのである〈史料2〉。

事例2 文久2年(1862)6月、水戸藩領別高の松岡領小野矢指村(北茨城市)が新たに塩釜を作りたい、そこで燃料として薪の代りに松岡郡奉行所が保管している石炭1007俵を使いたいとして郡奉行所に願いでた。郡奉行所は本藩に伺をたて、同年閏8月に了承を得た〈史料3〉。

小野矢指村では石炭を用いて塩炊きを始めたが、古い石炭であったので油分が抜けてしまって燃え方がよくない。昨今、薪や柴が高騰し、かつ塩の価格も上昇しているので、一日も早く塩焚きを始めたいので、新たに掘り出した石炭がほしいと願い出て、藩もこれも了承した。

事例3 文久3年7月、今度は松岡領上手綱村(高萩市)から村内の能仁寺朱印地にある石炭を掘りだし、松岡領内の村の塩炊き用に売捌き、その利益をもって焼失した殿堂の再建費にあてたいと村から願いがだされ、これも許可された〈史料4〉。

  1. [6]⼩宮楓軒「浴陸奥温泉記」第三巻 『随筆百科苑 第三巻』所収
  2. [7]『⽔⼾藩史料 別記下』 斉昭の指示はいつものことながら極端である。「一日もなくてはならない品」に違いないのだが、現実、現状をみようとしない。この斉昭の指示のあと、領内のすべての浜で製塩が行われた形跡はない。
  3. [8]茨城県史編さん委員会編『近世史料1 国用秘録上』『近世史料2 国用秘録下』によった。
  4. [9]たとえば、水戸藩主徳川斉昭が嘉永5年(1852)6月、水戸の家臣に向けて石炭の有用性について説いたのち、「猥に堀取、他国へ出し申間敷旨堅く留⼭にいたし」と指示したことからも知られる(『水戸藩史料 別記下』)。留山すなわち石炭の採取・販売等を藩の管理下に置くとしたのである。

史料

テキスト化にあたって

史料1 安政7年(1860)正月 旗本秋山氏知行所石炭手産掘取りに付下知

「上小津田村名主御用手控」『北茨城市史 別巻3 石炭史料1』p.15

   下知   安政七申年       秋山八郎
    正月廿一日        用所印
            知行所
             常州多賀郡臼場村名主
                    丹 吾

史料2 ⽂久元年(1861) 多賀郡山部村の石炭により塩焚きしたく願出に付達

安政6〜文久元年「(山横目)諸御用留」 日立市友部樫村譲家文書2-7 竪帳

下総小見川近村小堀村喜平次と申もの、当時仙臺領濱方ニ塩焚いたし居候由之処、石炭ニ荒塩を焚候ヘハ利分も強、第一山林ヲ伐取不申相済候事ニ付、御領分石炭之方堀取相済候ハヽ夫々冥賀金をも相納焚立申度、場所之義ハ伊師濱辺、山(部) へも近手ニ可然心得候との申立ニ付、石炭山元并海濱之模様をも得ト見分、其上ニ損益筋等勘考之上弥焚立申度含ニ候ハヽ場所故障有無等承届、委細御自分へ申出願書指出候様致内達指越候間、尚更承り場所為見立、村益并御益ニも可相成見込に候ハヽ伊師村ゟ願立致候様可被取扱候、尤諸入用ハ自分持、御上ゟ拝借等相願候義ニハ無之趣、一体塩高直之砌にも候へハ焚場相過品々殖候仕法も当今急務とも被存候間、場所故障も無之候ハヽ為相試候方も可然哉、何れ当人ゟ承り、届御自分初村方了簡之振ヲも追々可被申出候

史料3 ⽂久2年(1862) 多賀郡小野矢指村新規塩場燃料に⽯炭利⽤⼀件

⽂久2・3年「御⽤留類聚」 松岡家中⾼橋家⽂書246 竪帳 茨城県⽴歴史館蔵

(一)

⽯炭掘取之事
  (中略)
  1. 板橋源助・⼾沢誠之允:水戸家中
  2. 国分左⼤夫・松村平右衛⾨:松岡中山家中

(二)

 閏⼋⽉
御書付致拝⾒候、然ハ当⽅於国産⽅掘取置候⽯炭千七俵之分、此節⼩野⽮指村新規塩場相⽤度為試右⽯炭被下候儀相伺候振も御座候所、願之通被下ニ取扱不苦御了簡相済候ニ付被仰聞致承知候、其砌御答可有之処御混雑□御延引之段御紙⾯之趣被⼊御念之儀ニ御座候、此段御答得□□如此御座候、以上
    閏⼋⽉   板橋源助様    国分左⼤夫
          ⼾沢誠之亟様   松村平右衛⾨

(三)

 同(⽂久⼆年)⼗⼀⽉

(四)

史料4 ⽂久3年(1863) 多賀郡能仁寺朱印地内⽯炭を塩釜場に売捌⼀件

⽂久2・3年「御⽤留類聚」 松岡家中⾼橋家⽂書246 竪帳 茨城県⽴歴史館蔵 

 同(⽂久三年)七⽉
以書付致□□候、御領知上⼿綱村能仁寺殿堂先年焼失、已来未タ普請成就不致趣ニ、同寺持分御朱印地之内ニタン掘⽴、御領知海岸塩釜場ニ指出賣捌、右益⾦ヲ以殿堂修覆致度旨、同寺兼帯⼤津村⻑松寺并上⼿綱村役⼈共ゟ願出候処、何様同寺持分御朱印地之義ニ御座候得者指当り故障之筋も相⾒不申候ニ付、願之通済⼝相達申候間、右様御承知度御座候、且⼜前顕掘⽴セ話□□□之義ニ付役所ニおゐてハ不⾏届候ニ付未熟無之様取扱⽅⾈⽣次郎左衛⾨へ相通候間、御領知之儀ニ付尚更宜敷御達致度此段得御意候、以上
    七⽉九⽇ 国分左⼤夫様     ⿅島⼜四郎
         松村平右衛⾨様    ⽴花源右衛⾨

一                   ⾈⽣次郎左衛門
其村能仁寺殿堂為修覆同寺持分御朱印地之内⽯炭掘⽴、御領内塩釜場指出度旨願之通相済候条、其旨相⼼得担寺之儀ニも候得⼼ヲ付万端未熟無之様精々⽴⼊可被取扱事

 七⽉
御書付致拝⾒候、領知上⼿綱村能仁寺殿堂先年焼失以来未タ普請成就□□趣ニ同寺持分 御朱印地之内ニ⽯炭掘⽴、御領内海岸塩釜場ヘ指出賣捌、右益⾦ヲ以殿堂修覆致度旨同寺兼帯⼤津村⻑松寺并上⼿綱村役⼈共ゟ願出候由之処、何様同寺持分 御朱印地之義ニ御故障之筋も無之ニ付願之通御済相成候尚⼜前顕掘⽴セ話未熟無之様取扱⽅⾈⽣次郎左衛⾨□□□成候趣尚更宜相達可申旁被仰聞致□□候、此段御□得御意候、以上
    七⽉  ⿅島⼜四郎様     国分左⼤夫 
        ⽴花源右衛⾨様    松村平右衛⾨