泉川道標

   

拓本画像:綿引逸雄『ひたちの大地に』

 〈正面〉
此地ミカノ原 水木村ヘ十二町

従是 泉川道
常陸廿八社之内 大速玉姫神社
 〈右面〉
明和八年辛卯四月吉日
 〈左面〉
奥州岩瀬郡須賀川
  泉屋忠兵衛立之

泉川とは

江戸時代の紀行文や道中日記はしばしばこの地の泉川のことにふれる。というのは、百人一首、藤原兼輔の歌の「みかの原 わきて流るる 泉川いづみがは いつ見きてとか 恋しかるらむ」に擬して名づけられているからであった。藤原兼輔の歌の泉川は京を流れる木津川の古称。そしてこの地の泉川の源である泉のほとりで、声をかけ手をならせば湧きかえる、という不思議な現象が起こる。岩城海道を1.5キロメートルはずれても立ち寄る価値があったのだろう。

明治14年(1881)、茨城県会議員であった野口勝一は「多賀紀行」(『茨城日日新聞』)に「泉川の清泉」の見出しで次のように述べる。

森山を過く。村東六七町水木村に泉川の清泉有。其水冷然として小池の中に噴湧細沙廻巻風雲の起るか如し。人有岸上に立て跳躍する時ハ、噴勢益々激するを以て人之を神霊ある者とす。

碑文にある「常陸廿八社之内 大速玉姫神社」とは江戸時代、和泉神社ともいい、現在の泉神社のことである。

紀行文・道中日記にみる泉川

江戸時代、この地を行き交う人々にどのように泉川が映っていたか。『道中記にみる江戸時代の日立地方』から抜き出してみる(原文のままに示します。みなさんの脳内で濁点を打ってみたり、平かなを漢字に変換するなどしてお読みください)

建立地

大三箇明神(大甕神社 日立市大みか町6丁目16)前、岩城海道の傍らに建つ。岩城海道を水戸方面からやってきて、鳥居をすぎてまもなく、東(水木)に向う道がある。その分岐点に立つ。

なおこの道標は1959年秋、国道改修にともない「日立製作所大甕厚生園内」に移されたものの、1964年に元の位置にもどされた。

建立者は須賀川の和泉屋忠兵衛

明和8年(1771)に泉川道標を建立した陸奥国岩瀬郡須賀川村(福島県須賀川市)の「泉屋忠兵衛」は実名を祐倫といい、伊藤姓を名乗る。この伊藤家は、元禄2年(1689)に陸奥国岩瀬郡和田村(須賀川市)から須賀川村本町に出て、薬種商を開いた。屋号は和泉屋。忠兵衛は明和3年に家業を営みながら薬用牡丹の栽培を始めた。牡丹の根の皮は漢方薬となる。この牡丹畑は明治初年に伊藤家から柳沼家に譲られ、鑑賞用の牡丹園として整備され、昭和7年(1932)、「須賀川の牡丹園」として国指定の名勝となった。

須賀川村は奥州道中の重要な宿駅であり、かつ磐城・棚倉・三春・会津への道が交差する要地でもあった。

泉屋と和泉屋

忠兵衛家の本来の屋号は「和泉」屋。だが道標には「泉」屋と刻まれてある。これは泉川の泉で起こる人間の理解を超える不思議な現象にことよせて、あえて同音の「泉」を用いたのであろう。

主要参照文献