水戸領の魚が江戸日本橋へ
河原子浜小又家では弘化4年(1847)8月から翌嘉永元年10月にかけての期間、一度だけ江戸に魚荷を送っている。嘉永元年の9月10日、江戸表二丁目(現在地名不詳)の三浦屋半三郎宛に「生り」8籠(58本入)と塩鰹3俵(20入)である〈こちら 河原子浜小又家の魚荷の送り先 〉。
生りとは生り節のことで、頭と内臓を除去した鰹の身を蒸して半乾燥させた食品で、「新編常陸国誌」[1]は次のように説明する。
〔ナマリ節〕 那珂ノ湊、磯濱等ニテ作ル、鰹ノ宍ヲ切テ湯ニテユデ、サテ湯ヲキルナリ、下総ノ銚子ニテ製スルモノハ、ムシテユデス、故ニ松葉ノ火ニテクスブルナリ、久シキニ致スモノハ水戸ヨリ出ルヲヨシトス、共ニ多ク江戸ニ出シテヒサクナリ
水戸領の湊(ひたちなか市)・磯浜(大洗町)などで作られる。鰹を3枚に下ろし、身(しし 宍・肉)を茹でる。銚子では茹でずに松葉の火で燻るというが、長くもつのは水戸領のものである。水戸領内および銚子で加工される多くの生り節は江戸で売られる。
塩鰹とは塩漬けの鰹のことで、西伊豆地方ではカツオを丸ごと塩に漬け込み、時間をかけて乾燥させるという。
これら河原子浜をはじめ水戸領の魚荷がどのような経路をたどってどのように江戸へ送られたか、断片的だが他の浜および中継地の史料から追ってみる。
日本橋小田原町の魚市(画面下) 歌川広重『東都名所 日本橋真景 魚市全図』(国立国会図書館デジタルコレクション)より部分
目次
- 生魚荷は附通し
- 魚荷は荷主勝手をもって継立て
- 魚荷継の争奪
- 松戸河岸から江戸へ
- 境河岸
- 附録 水戸江戸町・肴町の衰退
- 余談 中川番所の役人
生魚荷は附通し
定められた宿駅を一駅ずつ荷を積み替えながら運ぶのではなく、いつくもの宿駅を飛び越して荷物を運ぶ「附通し」は、魚荷にのみ許されている。その事情は正徳5年(1715)の下総国相馬郡布佐村(千葉県我孫子市)と葛飾郡鎌ヶ谷(鎌ヶ谷市)・八幡(市川市)両村との争論における翌年の和解文書から幕府の裁許が次のようにあったことから知られる[2]。
鮮魚荷物は所々ニ而附替候而は魚茂損し商売ニ茂難成、東海道筋駿州府中、清水、相州鎌倉筋浦々ゟ附出し候魚荷物茂追通ニ致候上は、此海道筋計宿継ニ可仕様無之間向後鮮魚荷物は附通仕、其外之荷物は宿継ニ可仕旨、双方江被仰渡(以下略)
生魚荷をあちらこちらで付替えていては魚は損じてしまい、商売にならない。今後生魚荷は附通しすることで輸送時間を短縮することとする。その他の荷物は規定通り宿駅を継いでいくものとする。
これが幕府の裁定で、その根拠となったのが、東海道筋の駿河の府中・清水、相模国鎌倉筋の浜々の魚荷は附通しされているからであった。先例があったのである。
魚荷は荷主勝手をもって継立て
湊村の魚荷
宝暦11年(1761)9月、水戸領の湊(ひたちなか市)、磯浜・大貫(大洗町)の江戸への生魚荷は水戸下町へ廻すことなく水戸海道の宿駅である長岡宿(茨城町)へ直接送るよう水戸藩から指示された[3]。
磯浜・湊・⼤貫ゟ江⼾江為登候⽣肴之分、⻑岡村江直出シに相達候所、諸肴荷物共ニ⻑岡村江直出シに相済候
つまり長岡宿へ附通しで送るよう定められたのである。
しかし、以下のように2年後の宝暦13年に江戸への魚荷は「往来致候儀勝手次第」と修正された[4]。
- 一 都⽽浜々ゟ江⼾江為登候諸肴荷之義者順道往来致候儀勝⼿次第ニ候、乍去商⼈勝⼿を以御城下相廻候節ハ御町之外横道為致間敷候
その四十年後に湊村は次の理由から荷継村の変更を水戸藩に願い出た[5]。享和4年(1804)、那珂郡湊村の生魚荷を江戸に送るのに鹿島郡夏海宿(鹿島郡成田村 大洗町)で中継ぎしていたが、近年生魚荷を運べない事態が生じたり、運搬が遅れたりしているので、鹿島郡大貫村(大洗町)と鹿島郡子生村(鉾田市)での荷継ぎに変更したいと。子生村への変更は、夏海宿での湊村からの魚荷量に見合う輸送力(駄馬と馬子)の不足が原因であったにちがいない。
藩は湊村の願いを許可した。理由は
何方成とも宿場之儀は荷主勝手ニ継送り可申
魚荷を継送りするに、どの宿駅を選ぶかは、荷主の勝手であると。長岡宿はいくつかある継送り基地のひとつにすぎなくなっていたのである。
なお、この文書の中で子生村から鉾田までの附通し駄賃を規定している。鉾田には北浦に面した河岸がある。鉾田河岸から先は北浦の舟運をもって利根川をさかのぼり江戸へ送る、そうした魚荷の輸送ルートを想定させる。
魚荷継の争奪 水戸海道長岡宿を中心に
会瀬浜の魚荷
その指示から20年余経過した天保2年(1831)8月会瀬村の魚荷が駄送中に抜荷を疑われた一件の際、藩からの達に次のようにある[6]。
- ⼀ 松岡扱会瀬浜等ゟ江⼾出之⿂物継⽴之儀、⻑岡・⼩幡両駅引張ニ相成候⼀件、両村古法之意味申⽴候由ニ⽽事柄不相分居候由之所、⻑々引張居候⽽不相済事ニ附、夫々利解申含、以来熟和致、無隔意両駅申合、荷主勝⼿を以継⽴候筈、和談為相整、右両駅江掛り候荷ハ本道致通⾏候様浜々江茂申達候由、御郡⽅ゟ申来候間此段申達候事
松岡扱会瀬浜等[7]から江戸へ向けて出荷された魚が、水戸海道の長岡(東茨城郡茨城町)と小幡(同)の両宿駅間で取り合いになった。それに対し水戸藩は互いに古法を主張しており、いずれの言い分が正しいのかわからない、として裁定が下された。どこの宿駅をつないでいくかは「荷主勝手」である。両宿は「熟和」し「隔意」なく話し合いさせ、その上で和解させた、というのである。
湊浜の魚荷
寛保3年(1743)に水戸海道の長岡宿(茨城町)と涸沼畔の上石崎河岸(茨城町)との間で江戸に向けた生魚荷物の輸送をめぐる争いが起った。湊村の生魚荷物が那珂川—涸沼川—涸沼をたどって上石崎河岸で揚げられ、馬の背にのせられ神宿村(茨城町)から水戸海道の堅倉宿(小美玉市)へと運ばれた。そのとき長岡宿の者がわが宿で荷継ぎしないのは不届きとして金子をとりあげるという事件が起こった。藩の裁定は上石崎及びその対岸にある海老沢河岸[8]に揚げた荷物に「津役銭」[9]を支払っているので問題なし、長岡宿で荷継ぎしなければならない定めもない、というものだった。長岡宿が上石崎の問屋に詫びを入れて落着した[10]。
なおこの魚荷は府中あるいは土浦へ向けられたものであろう。江戸向けならわざわざ長岡宿への回り道をせずに、鉾田河岸へ一直線の道筋をとるであろうから。
なにやら「会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる」を想起させる。
北浜の魚荷
その後、文化年間(1804〜17)に川尻浜など北浜[11]からでる生魚荷は、那珂郡村松村(東海村)—鹿島郡大貫村(大洗町)—鉾田河岸へと駄送されていた(鉾田河岸から先は、北浦から利根川への舟運を想定できる)。このルートの継立賃銭が高騰したため経路変更が検討された。水戸海道枝川宿(ひたちなか市)から坂戸(酒門 水戸市)、水戸海道をはずれ神宿(茨城町)—鳥栖(鉾田市)—鉾田河岸というルートである。枝川から鉾田河岸へは附通しである。ここで上石崎河岸と長岡宿はともに、このルートで荷継ぎにかかわれるよう運動を起こしたが、結果は不明である[10]。
継立賃銭高騰の事情については不詳。文政6年(1823)の磯浜と大貫の境に出判引替所を設置したときの達に次のようにある[9]。
⼤貫境へ引替所相⽴候⽽ハ磯浜・湊・平磯共道程近く候ニ付⼤⽅同時位ニ改所へ相掛り混雑いたし隙取可申哉、左候テハ江⼾出之分直段ヘモ相拘り難渋仕候趣扱下濱々より追願出候
魚荷口銭を納入証明書である出判をチェックする改所を抜荷対策で大貫村に設けられたが、近くの湊浜など根浜[11]の魚荷が一斉にやってきて混雑し、通過に時間がかかり、江戸への魚荷価格が低下して困っている、という。出判改所が設置されてない時期であっても混雑していたであろうし、それが輸送費上昇に影響したであろうか。
魚荷継をとりあう村々
そのほか、水戸海道長岡宿における生荷の輸送をめぐっては、茨城郡小鶴・奥谷両村(茨城町)との貞享3年(1686)の出入(訴訟事件)、奥谷村との正徳3年(1713)の出入、水戸商人との享保4年(1719)の出入が起きている[10]。
湊・磯浜・大貫浜そして会瀬浜の江戸へ向けた魚荷は水戸海道の宿駅長岡・小幡を通過し、その後水戸海道からはずれて茨城郡小川(小美玉市)あるいは鉾田などの河岸から霞ヶ浦や北浦の水運によるのだろう。
米などの運送は
鹿島郡海⽼沢村(茨城町)は涸沼の南⻄岸にあり、⽔⼾領に属する。涸沼⽔運の荷受河岸があり、「水府志料」[13]はこの河岸の機能について次のように記述する。
野州、奥州より江⼾へ運送の諸荷物、東海ハ那賀湊より涸沼に⼊リ、⻄ハ那珂川を下りて同所(涸沼)に⼊る、此所より下吉影迄陸地⼆⾥を駄送し、⼩⾈にて⼩流をはしけ、北浦に出て、⿅島浦より利根川に⼊て江⼾に赴く
海老沢河岸から下吉影(小美玉市)まで駄送し、下吉影からの「小流」=巴川を下って鉾田河岸から北浦へという経路である。これは米などの農産物や材木など一般の荷物の事例であるが、魚荷も同様ではなかったか。
松戸河岸から江戸へ
魚の荷揚げ勝手次第
水戸領の浜々や鹿島浦々、銚子の魚荷が、利根川を船でさかのぼって江戸へ送られていく。その利根川河畔にある下総国の相馬郡布佐村(千葉県我孫子市)は魚荷を多く荷揚げし、松戸村(下総国葛飾郡 千葉県松戸市)の河岸まで駄送する。
元文2年(1738)にその布佐村と同国印旛郡竹袋村木下河岸(千葉県印西市)との間で利根川からの荷揚げ争論が起った[14]。この争いは享保13年(1728)手賀沼の干拓により新道ができ、布佐村で河岸同様に人や物資そして生魚の船積み下ろしをするようになったことで起った。これに竹袋村が異論を唱えた。ただし
鮮魚類は荷主勝手次第、布佐村ニ而取捌候共構之無
生魚の荷送りは荷主勝手次第なので布佐村が扱うことに異論はない、と竹袋村はいう。幕府は
布佐村は川岸場ニ而無之間、御年貢津出、村用之荷物并鮮魚類は格別、其餘之諸荷物・旅人往来共ニ布佐村ニ而一切船積仕間鋪候
と、布佐村は河岸場ではないので、年貢米・村用荷物そして生魚の荷揚げを認めるが、その他の物資の積み下ろしや、旅人の乗降は一切してはならないと限定を加えた。
松戸河岸魚荷問屋
水戸海道の宿駅である松戸宿(下総国葛飾郡 千葉県松戸市)には生魚荷を専門とする問屋が2軒あった。人や一般の荷物は水戸—土浦—取手—〈利根川〉—我孫子と水戸海道を経由して、松戸の河岸で江戸川にでる。
この松戸宿の魚荷問屋の史料[15]に次のようにある。
鮮魚荷物之儀、松戸宿へ送リ来リ候場所ハ、奥州岩城小名浜、常州鹿島浦、水戸様御領中御溜リ湊浜・川原子浜、松平右京大夫様御領分当国(下総)海上郡銚子浜、其外諸浦々ゟ送リ来リ、当河岸ニて舟積候
松戸宿が扱う鮮魚(なまうお)荷物は、小名浜(福島県いわき市)、水戸領の湊・河原子両浜、銚子浜(千葉県銚子市)、そのほかさまざまな浜から送られてきて、松戸河岸にて船積みし、江戸へ送っている、という。
そして松戸河岸から江戸小田原町(日本橋 東京都中央区)にある魚河岸への輸送経路を示す記述がある[15]。
- 一 水戸道中松戸宿御答奉申上候、鮮魚荷物松戸宿江附送リ来リ、当川岸ニて舟積仕候儀は乍恐御入国已来之由申伝へ、宝永二酉年松戸金町御関所へ御願申上、川舟不足候節ハ鮮魚売前欠ケ候ニ付、附来リ候馬ニて江戸小田原町迄附通仕候
この史料は鮮魚荷物についての記述であるが、魚荷物は古くから松戸河岸から船に積み江戸川を下り、行徳河岸(千葉県市川市)から日本橋魚河岸へ舟運によっていたが、宝永2年(1705)に松戸河岸において川舟が不足する時期における駄送が検討された。水戸海道の松戸河岸から江戸川対岸の金町に船渡しで荷揚げし、馬に背負わせたまま金町松戸関所[16]を通り、千住宿から日光道中に入り、日本橋の魚河岸へ附通し(一気に松戸から日本橋へ輸送)するという輸送に幕府の許可がおりたのである。松戸金町関所から日本橋までおよそ18キロメートル。4時間余の道のりである。
ところで、金町から日本橋まで駄送する新ルートになぜ幕府の許可をえる必要があったのか。魚荷はどこを通っても「荷主勝手」のはずである。しかしのちにふれるが、江戸に流入する商品を統制する中川番所を経ない道筋であったからであろう。
行徳河岸のクレーム
上の松戸宿の主張は、本行徳村(下総国葛飾郡 千葉県市川市)の訴訟への反論だった。本行徳村の主張は次のとおりである。
一 下総国本行徳村奉願上候ハ、銚子浜其外浦々ゟ出候鮮魚荷物、木下河岸揚ニ而大森村・白井村・鎌ケ谷村・八幡宿通、本行徳ゟ江戸小田原町問屋江積来リ候所、近年布佐村ニて逆道中取立、其上御運上指上、通し馬ニて附送り、松戸宿ニて船積致し、江戸表江積送り候ニ付至極困窮仕……
従来、利根川銚子浜その外の浜から利根川を船で遡ってきた魚荷は、木下河岸(下総国印旛郡竹袋村 千葉県印西市)で揚げて、大森村—白井村—鎌ケ谷村—八幡宿を通って本行徳村へ駄送されてきた。ところが上流の布佐村(下総国相馬郡 千葉県我孫子市)で荷揚げし、松戸宿まで駄送し、松戸宿から江戸川を船で下り、本行徳を通過して江戸小田原町へ送るようになったため荷数が減少して困窮している、というのが本行徳村の主張である。
生魚は三日
生魚の消費期限はみじかい。漁獲から三日である。かつ江戸日本橋の魚市が開かれる朝のうちに届いていなければならない。どこの浜であろうが、銚子であろうが河原子浜であろうが三日の内に江戸に届けなければならない。諸事情で間に合わず、商品としての価値を落すことがある。その場合、中継地の荷宿は対策を求められた。利根川右岸の布佐村の荷宿2名が文化2年(1805)に銚子飯貝根浜の商人に差し出した文書に次のようにある[17]。
漁物江戸表へ御荷物御送り被成、就中二月中旬ゟハ暖気相成候ニ付、御当川岸(飯沼村飯貝根浜)出船ゟ江戸肴市三日目朝売ニ仕来□、近年右漁舟年々相増し御荷物過之分ニ而被成、私共(布佐村)川岸ゟ陸上ケいたし、松戸川岸迄継送り申候中、五ケ年已来御荷物附送り相滞り、三日目朝売買後レニ罷成、暖気之節ニ候得者魚腐損仕、価格別売劣、御荷主方大造之御損金ニ相成(中略)然ル上ハ只今迄寄馬不仕候遠村迄相頼ミ、寄馬ニいたし、いか程大荷たり共兼而御規定之通り暮七ツ前後川岸着仕候御荷物聊も売後仕間敷候、万一江戸三日目朝売買後レ仕候ハヽ御売損金私共勿論、寄馬村々迄も割符いたし出金仕、毛頭御損毛無之弁金可仕候
銚子の生魚荷を布佐村で揚げるようになったものの江戸への着荷に遅れが生じてきた。事情はこうである。2月中旬以降(現代の暦では3月上旬)は暖かくなり、銚子飯沼村飯貝根浜の河岸から船をだし利根川をさかのぼり、江戸の魚市に三日目の朝に届くようにしてきたが、近年漁船が増えて魚荷も増えたため、この5年は布佐村が用意する駄馬に不足が生じ、荷送りに遅れが生じた。三日目朝の江戸魚市にまにあわず、暖気のため魚に腐れが生じ、価格もとりわけ低落し、荷主に大きな損金を与えてしまった。その対策として、駄馬・馬方の調達範囲をひろげて確保し、暮七つ前後に到着した魚荷でも朝の売買に遅れないようする。もし三日目朝の売買に間に合わず損害が出た際には弁償する。このような約束を布佐村の二つの荷宿が銚子浜の商人たちと交わした。
消費地まで三日。しかも朝市に間に合うようにというのが生魚の輸送期限であった。たしかに河原子浜においても嘉永元年(1848)10月5日、今市(栃木県日光市)に出したカツオ・シビは7日の朝に届けている。また上野国の木崎(群馬県太田市)・桐生・伊勢崎に向けて9月15日に「大生り」を発送し、三日目後の18日に届けている〈こちら 河原子浜小又家の魚荷の送り先〉。
境河岸
水戸領の生魚荷は利根川をさかのぼり、下総国猿島郡の境河岸(茨城県境町)まで運ばれることもあった。さらに境河岸とその対岸にある関宿河岸(下総国葛飾郡 千葉県野田市)を中継して江戸川を下り、日本橋へ届けられる。
その境河岸で安政4年(1857)「水戸・銚子其外浜々より送来候生魚荷物」をめぐって仲買人3人の荷受け争いが起こっている[18]。争いが領主・幕府の裁許を得るところまで発展すれば、「荷主の勝手次第」となったのであろうが、扱人が入って以下のように内済した。
生魚荷を古くから扱ってきた紋四郎・甚次郎は、干鰯その他塩物を扱ってきた吉兵衛が近年生魚を扱うようになったのは営業妨害だと主張。一方、吉兵衛は送られてくる荷の中に生魚が混じっており、それを売っただけで自分の営業権の内だと反論。仲裁人が入り、銚子からの生魚荷は紋四郎と甚次郎の二人に限り、水戸浜からの生魚荷は吉兵衛を加えて三人が扱う、つまり新規参入の吉兵衛は水戸領産の生魚荷に限定されたのである。
新規仲買人吉兵衛は、生魚専用運搬船(なま船)に積まれて水戸・銚子から利根川をさかのぼってきた生魚荷を、境河岸でおろし、町内の棒手振(行商人)を集め、糶売をしていた。江戸へ送るだけでなく町とその周辺地域への供給していたのである。
この生魚を運ぶ「鱻船」について『利根川図誌』[19]が次のように描いている。冬は布佐から松戸を経て江戸へ駄送するが、鮮度が落ちやすい夏は「活舟」に入れて関宿河岸経由で日本橋まで運ぶという。「鱻船」とはどんなものかわからないが、「いけふね・いけぶね」と読んで「生船」の漢字があてられるものは「魚類を生かしたままでたくわえておく水槽」((日本国語大辞典)のことである。「活船」と同じものであろう。
銚子浦より鮮魚を積ミ上するを鱻船といふ、舟子三人にて日暮に彼処を出で夜間に二十里餘の水路を泝り未明に布佐・布川に至る、特この処を多しとす、故にその賑他処に倍し、人聲喧雑肩摩り踵接し、傾くる魚は銀刀を閃し、鉛錘を投じ、桃花を散じ、箬葉を翻して一時の佳景と称するに足れり、而して冬ハ布佐より馬に駄して松戸通よりこれを江戸に輸り、夏ハ活舟を以て関宿を経て日本橋に到るを以て小民市人の饞を愈し以て公子王孫の粲を博む、又常陸の鹿島浦より来る鱻船希に有り、又なまりぶし、乾魚は□艇にて輸るなり
下総国相馬郡布川河岸(茨城県利根町) 布佐の対岸にある。中央下で行われているのが魚の糶であろう。台の上に糶人が立つ。上方に棒手振や魚荷を駄送する姿も描かれる(『利根川図誌』)。
附録 水戸江戸町と肴町の衰退
水戸下市にかつて肴町、江戸町と名付けられた地があった。天明6年(1786)の「水府地理温故録」[20]は次のように説明する。
本弐丁目并江戸町
…此街(本二丁目)南側の上み壱町目境より南は紺屋町への通路を今江戸町と唱ふ、古くは江戸肴町と言しとなん、定而江戸表へ出す肴荷は此町に限りしなるべし、いつの頃にや其事止みて唯江戸町と称するならん
本二丁目の南に江戸町がある。かつては「江戸肴町」と言っていた。江戸へだす魚荷はこの町を通さなければならなかったが、いつのころからかそれはなくなり、単に江戸町というようになった。
と言うのである。ついで「肴町」についての記述。
肴町 …肴問屋数軒有りて濱々より来る所の肴荷を取捌く、凡て御城下を通り、烏山、栃木、笠間等之所々へ出る肴荷は当所の問屋へつかずしては通路成難御定法也、御肴方附属の御中間之内、荷口改役と称する者改めて上中下の魚差別して荷口銭を取納む…
肴町に魚問屋が数軒あって、領内の浜からの魚荷を取り扱う。笠間や下野など領外へだす魚荷はこの肴町の問屋を通さなければならないきまりである。ここでは肴方の中間の中から荷口改を任じ、魚の上中下の等級分けをして、荷口銭を取っている。
なお、魚の荷口銭徴収は宝永2年(1705)に始まっている〈 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる〉。
この「水府地理温故録」の記述から五十年ほどたった「水府地名考」[21]の説明は以下のとおりである。
江戸町 この所は江戸へ出す魚物類を荷作り出す所ゆへ町名となりしと見ゆ…
肴町 この町の名は、元和寛永の頃より定善寺過去帳にもみゆ、正保二年の旧記にも、此町名見ゆといふ、魚物の交易は古くよりありて、府下盛んに成るに従て、この売買も盛んなりし故、江戸への運送も府下に止りしか、江戸肴町なと言へる町名の起れるにても察すへし、然る故四月 東照宮御祭礼の時、船屋体とて躍りを出すなど、其全盛を知るに足れり、今は海浜より直に江戸へ運送する故、当地の衰へとなりしなるへし
この説明は天保5年(1834)のものである。宝暦13年(1763)に領内の浜から江戸へ魚荷を送る際に水戸城下肴町を通さずともよくなっていた〈 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる >北浜魚荷の順路往来勝手しだい〉。そのことが「当地(肴町)の衰へとなりし」理由であった。
余談 中川番所の役人
中川番所とは、中川下流の小名木川と交差する右岸に設けられた川船を対象とする数少ない関所の一つ。中川関所ともいう。現在の東京都江東区大島9丁目にあった(江東区中川船番所資料館がある)。番所は川に面して設けられ、前を通過する川船の積荷および乗客を検査した。一般の関所と同じく「入鉄炮に出女」を取り締まるが、実際は旅人通行には厳格でなく、反面積荷については厳しく、品目・数量、荷主の住所氏名、送り先の住所氏名などを詳細に報告させ、不備があると通さない場合もあった。実質的にこの番所は江戸への商品流通の統制機関として機能していたのである(国史大辞典)。
この中川番所で起った松戸宿魚問屋の生り節の輸送をめぐる一件を紹介する[22]。
松戸河岸をでて、船で江戸川を下り、行徳で新川に入り、中川を横切り、小名木川に入り、江戸日本橋の魚河岸に向かう。小名木川に入るとき中川番所で積荷の点検を受ける。
文政3年(1820)7月19日夜、松戸魚荷問屋利倉屋源内の江戸二十日売の生り節を積んだ船が番所で止められてしまった。生り節を3艘に分けて積み、先発した1艘は通過できたのだが、後発の2艘が見張番によって通船を止められ、生り節を取り上げられてしまった。見張番が交替していたのである。理由は生魚でなく生り節だからであった。「天下之御関所を偽リ候段差免しがたし」と。夜明けを待って詫びても通してもらえなかった。江戸の問屋を通じて詫び状を入れ、荷物は二十日朝に返したもらえた。しかし船2艘と船頭2人が留め置かれたままであった。23日になってようやく船と船頭とも解放された。後日見張番の頭に内々に事情を尋ねると、実は「夜分生リ節通船之儀密々」だったのである。
これまで内々であっても通船を許されていたものが、なぜ急に止められたのか。それは当時の番人であった周助という人物に原因があったのだと松戸の魚問屋はいう。
中番ヲ相勤メ候小頭ニ周助ト申御方御座候、此仁ハ至而無訳六ケ敷申、外々之落度ヲ見出シ候而唯自分之出世而已好候仁ニ御座候、折悪敷十九日替り合ニ而、右之御仁ニ見咎ニ相成候段、御荷主様始江戸問屋并私共迄難渋仕候段、誠ニ時之不運ニ奉候
訳もなく難しいことを言い、落度をさがしては決まりを振りかざす、出世欲に固まった御仁。現代でも周助のような人物は珍しくない。それはともかく今後も夜間の生り節輸送を止められては困る。そこで松戸の魚問屋は24日に中川番所へ出向いて「御見張御番御頭様江内々償方仕、御窺申上候」ところ、「此方(見張番頭)から下役江申談置候」以後も「夜分通舟之義も密々ニ而」通行してよいが、この件は「極内々御座候得者外様江ハ決而不洩様被頼候」。事なかれ主義。まるで現代社会をみるようだ。
[註]
- [1]宮崎報恩会版『新編常陸国誌』巻十三の土産の項。ここの記述は中山信名のもの。
- [2]『我孫子市史資料 近世篇Ⅲ』p.375収録史料「正徳六年 布佐村御裁許書写(鮮荷物新道附通に付)」 川名登『河岸にいきる人びと』p.274
- [3]史料 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる 収録の「史料5 宝暦十一年九⽉ ⽔⼾領⿂荷物領外指出順路に付達」
- [4]史料 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる 収録の「史料6 宝暦十三年十二⽉ ⽔⼾領⿂荷物領外指出順路に付達」
- [5]『茨城県史料 近世社会経済編Ⅳ』p.252収録史料「四五 享和四年那珂郡湊村と鹿島郡子生村、江戸出生荷中継約定書」
- [6]史料 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる 収録の「史料1 天保⼆年⼋⽉ ⽔⼾領多賀郡会瀬浜⿂荷物抜荷⼀件」
- [7]松岡扱会瀬浜等:天保2年(1831)1月に水戸藩領の郡制が変更となり、松岡郡奉行所管轄区域となった会瀬村などの漁村をさす。ちなみに松岡扱の主要な漁村に、南から平磯・前浜(ひたちなか市)・久慈・水木・河原子・会瀬・川尻(日立市)・大津(北茨城市)がある。
- [8]海老沢河岸:茨城郡海老沢村(茨城町)にある。水戸藩領。宝永年間(1704〜11)にこの海老沢と同郡紅葉村を結び、巴川につなぐ水路(勘十郎堀)が計画されたが、反対の百姓一揆が起こり中止となる。
- [9]津役銭:魚荷でいえば荷口銭のことであろう。水戸藩の荷口銭徴収は宝永2年(1705)に始まっている。
海老沢村には文政5年(1822)に「出判改所」が設置された。浜々から他領に魚荷を出荷する場合においてのみ荷口銭を納める。その納入証明書である出判を点検する役所が領内の交通の要所に設けられた。 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる を参照。 - [10]高橋実「魚生荷輸送をめぐる競合」(『茨城町史』p.334)。長岡宿、上石崎・海老沢河岸など茨城町域を中心とした魚荷の輸送について包括的な叙述がある。
- [11]史料 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる 収録の「参考史料6 ⽂政六年三⽉ 磯浜・⼤貫境出判引替所設置達」
- [12]北浜:久慈・水木・河原子・会瀬・川尻浜などをさし、那珂川河口付近の大貫・磯浜・湊・磯崎などは根浜と呼ばれていた(こちら 会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる)。
- [13]「水府志料」(国立公文書館デジタルアーカイブ)鹿島郡海老沢村の条。
- [14]『我孫子市史資料 近世篇Ⅲ』p.375収録史料「元文3年 布佐村と竹袋村木下河岸争論につき木下河岸一札」
- [15]『松戸市史 史料編(二)』p.539収録史料「一〇四 宝暦十三年七月 本行徳村故障ニ付キ松戸鮮荷宿返答書」より。この史料は、水戸道中松戸宿の2軒の鮮魚荷宿が、行徳村(千葉県市川市)から松戸宿が鮮魚荷物を扱うようになってから行徳村が扱い量が減ったと訴えられて、その返答書中にある文面である。
- [16]金町松戸関所:江戸川渡河地点の金町村(東京都葛飾区東金町)側にあった。この地点は奥州や房総から陸路で江戸に入る関門で、「出女・入鉄砲」を統制した。
- [17]『松戸市史 史料編(二)』p.566収録史料「一一九 文化二年十二月 銚子飯貝根浦鮮魚一件」
- [18]:川名登『河岸に生きる人びと』p.154(1982年)及び『下総境の生活史 史料編 近世Ⅰ 河岸町の生活』(2000年)p.350収録史料「197 安政四年七月 生魚売捌き出入りにつき済口証文」
- [19]赤松宗旦『利根川図誌 一』(安政2年自序 安政4年出版) 国立公文書館デジタルアーカイブより
てんまばうてう、と読みが振られる□に入る文字は、舟部に刀の一文字。刀のように細長い小舟をさし三百斛を積むものをいう。ちなみに艇は二百斛以下を積むものさす(新大字典)。なお斛は和船の積載量の単位で、1斛は10立方尺=0.278㎥、300斛=83.4㎥。 - [20]天明6年(1786)高倉胤明著。『茨城県史料 近世地誌編』に拠った。
- [21]天保5年(1834)石川桃蹊によってまとめられた。『茨城県立歴史館史料叢書5 近世地誌Ⅰ』の翻刻に拠った。
- [22]『松戸市史 史料編(二)』p.570収録史料「一二〇 文化二年正月 利倉屋源内「諸状書留帳」