史料 天保十年 大内達直 年中日記覚

日立市郷土博物館の自主学習グループである古文書学習会が1999年に解読した「天保十年 年中日記覚」を PDF版 で提供する。

記録者

この「日記」の記録者は、水戸藩領久慈郡田中々村(日立市大和田町)の大内勘衛門達直である。

日記を残した天保10年(1839)、勘衛門は郷士として川尻村で十年勤めた異国船見張の任を終えて3年がたっていた。勘衛門はこのとき郷士の役を子の左馬之介に譲っていたようである。子の左馬之介の行動を日記によって見るとしばしば水戸にでかけたり、大内家の対外的行事に出席していることからの推測である。「弘化三年五月 水戸藩郷士書上」には、勘衛門ではなく左馬之介の名がある。

郷士の役割は基本的には、村の鉄砲管理である。農民らの鉄砲所持は原則禁止である。だが害獣駆除のため猟銃の所持、使用はゆるされていた。村のそうした鉄砲の管理すなわち猟師の統括を郷士は担っていた。

記録のあらまし

天候 毎日欠かさず記録されるのは天候である。しかも夜明け前から夜までの変化を克明に記す。しかし本書ではごく一部をのぞいて(気象学にとって有用なのかも知れないが)省略した。残した中で、10月21日の条を紹介する。天気の変化を記述するなかで

此日ハ至極暖気ニて皆々農業并稲コキノ婦人等迄単物ニて居リ、其外子共等遊ニも単物ニて居リ、是ニて暖気成し事ヲ可以知

と記す。この年の10月21日は太陽暦でいえば、11月26日、冬に入っていようか。稲刈りが済み、脱穀のさなかのことである。裏地のない単物(ひとえもの)は初夏から初秋にかけて着るもの。こうした天候異変を日々の天候を記すなかで勘衛門は予測しようとしたのであろうか。

来客 郷士を退隠した勘衛門のこの記録には、毎日詳細に記される天候の変化以外はさまざまだが、とりわけ来客や通過する人々の記録が多い。例えば、水戸藩附家老の中山氏について2月16日の条に「中⼭備後守殿此⽇⼿綱館ヲ午上刻発⾜ニて江⼾表ヘ登ニ付此辺ハ夜之九ツ頃通⾏被致候、尤殊外⼩勢之由ニ候」と。岩城海道の宿駅である田中々村、その海道に面して居宅があり、そして郷士を務める大内家ならでは記録である。

大橋川の水増し 3月27日のこの日は苗代に種を蒔く日だった。大雨ではなかったが終日降り続き、夜に入って降りやんだ。しかし「⼤橋川⽔増シて往還へアカリ候故諸⼈ヒザキリ位ニコエ申候」という事態になった。

大橋村と田中々村とを境する大橋川は現在の茂宮川。高貫村(常陸太田市)に源を発し、多賀山地の水をあわせながら久慈川に注ぐ。田中々宿の上流、西方1キロメートルほどのところで亀作川・弁天川をあわせ水量を増す。現代のように堤があるわけではないので、上流で大雨になればたちどころに田中々の往還に川水があふれ、人の膝まで上がる事態となったのである。

4月28日、5月7・14日、6月21日、8月14日にも大橋川の「水あがり」があり、往還つまり岩城海道の往来に障害をもたらした記録がある。

6月21日の条に「宵⽇之⾬メ川上ハ沢⼭降候ト⾒ヘ、落合・⽯神両所之船渡、⾺ヲ渡スハ留リ、⼈ハ渡リ候」とある。石神外宿村(対岸は下土木内村)と落合村(対岸は額田東郷村)の久慈川の渡しはこの日、人は乗せても馬は渡さなかった。荷を背負い重心が高くなった馬を運ぶには転覆の危険があったのだろう。

ところで、大橋川があふれても勘衛門は往還往来への影響しか記録していない。田畑や家屋への言及がまったくない。田畑への一時的な水かぶりは作物に影響なし、むしろ耕地へ栄養分運んできてくれるので歓迎すべきことなのか。また家屋は地盤を高くするなどの対策がとられ、被害がなかったのであろうか。

御殿 勘衛門が御殿と呼ぶ建物が大内家の屋敷地内にある。6月27日と7月4日に「御殿之庭」の掃除を行っている。その御殿について11月20日の条に次のような記事がある。

御郡奉⾏会沢清衛⾨ゟ無拠対談致度趣⼿代ゟ申来リ候ニ付左⾺之介⽔府へ罷出候、御在国ニ付御鷹場ニ御⼩休ニ被成、宅ヲ⾒分致申出候様御⼩姓頭取衆ゟ達ニ付⼩宅⼭三郎来リて御殿之間数并居宅之間等ヲ書付致申出ル趣ニ候 

松岡組郡奉行の会沢清衛門から相談したいことがあるというので、子の左馬之介が水戸へ出向いた。藩主斉昭が在国中の追鳥狩に大内家を休憩所としたいので、御殿や居宅の広さなどを調べさせて欲しいというのである。

翌年3月22日、第一回の追鳥狩が水戸城南千束原で行われた。以後、安政5年(1858)まで9回、すべて水戸城下で行われた(『水戸市史 中巻三』)。結局、久慈川流域での追鳥狩は実施されず、大内家が斉昭の休憩所となることはなかったものと考えられる。

月蝕 末尾に記された3月3日夜の空模様について勘衛門は次のように記す。

(天保10年)三月三日夜五ツ過之頃小用ニヲキて見候処、南高野村之山ゟ月光リて出候故暫ク見居リ候得ハ、半月之形不残南高野山ゟ見へ申候、然リ夫レ亦々半時程過てヲキ出見候節ハ半月之形消エテ更リニ無之候、扨々不思議成事ニ此上変事ニても可有哉料簡覚候

3月3日の夜8時すぎ東方にある南高野村の山にかかっていた半月が一時間もすぎると月は消えていた。勘衛門は不思議なことだ、異変が起らなければいいがと心配する。

村の日常と非日常 例えば、3月7日の条に「茄⼦苗ヲフセ候、夏⼤根ヲ蒔」とか、27日に「苗代へ種ヲ蒔」とか、4月27日には「早苗ヲ三⼗⽥植ヲ致」など、いくつか農作業にかかわる記述があるが、農作業のすべてではなかろう。勘衛門にとって記録すべき事柄の基準があるのだろうが、それが何か、私の読み込みが不足している。

日常の中の非日常とも言うべき事柄(の一部)をとりあげると、河原子・水木・久慈浜産鰹の購入(7/9・17・18)、塩の入手(3/24)、村内での喧嘩口論(7/5)や久慈川の水難事故とその葬儀(7/30)、相撲(8/23)、祭り、芝居などの娯楽など多種多様なことが記録されている。

大内勘衛門の立場、視点からという限定はつくが、村の暮しはけっして平凡ではなく、さまざまなことが起り、すぎていく。そうした村人の生活を考え、知る上に重要な手がかりをもたらしてくれる史料である。

参考