漁村の金融 漁師の借金

この記事は『会報 郷土ひたち』第67号(2022年7月1日)に載せた「漁村の金融」のロングバージョンです。

目次


水木村と内山家

江戸時代、久慈、水木、河原子、会瀬、川尻の各村は漁業がさかんだったことは知られていることで、各浜の漁業規模は『日立市史』の411頁に紹介されている石神組郡奉行所管轄の文化六年(1809)から翌年にかけての一年間の村松東方村から川尻村に至る十ヶ村の浜々の漁獲高によって比較できる。水木浜の漁業規模についてはこちら 史料 日立の水産 歴史篇 を参照。

常陸国多賀郡水木村は「天保郷帳」によれば村高618石余り、日立市域の海岸部では平均的な大きさだろうか。寛延3年(1750)の村の戸数338戸[1]のうち、漁業者が135戸、約4割にのぼり、鰹の流網漁が中心で、村外から80人が出稼ぎにやってきているという「坂上村漁業沿革」『茨城県水産誌 第五編』

この水木村の内山家文書(日立市郷土博物館収蔵)を水城古文書の会が解読し『水木村舟庄屋 内山家近世文書』(2021年)として翻刻した。

収録史料によれば内山家は鰹漁や鰯漁を営む船主である。そして文政11年(1828)に内山八郎衛門が舟庄屋に任命され、また時期は不明だが「御国産塩改懸」にも任命されている。以後慶応4年(1868)に亡くなるまで舟庄屋を勤める。八郎衛門の死後、後役に子の新平が任じられている。

村の金融

何らかの事情で農民が現金を手にしたいと思ったとき、いくつかの方法がある。代表的なものは所持する田畑を売ること、あるいは抵当にして借金することである。譲渡あるいは借金の理由として書かれているのはいずれも年貢上納に差支えるからであるとする。これは常套句というか最強の理由である。

農民なら所持する田畑だが、漁民の場合は異なる。

船上げ場・船引き場は譲渡あるいは担保物件

(1)宝暦3年(1753)12月、水木村の兵衛門はこの年の年貢納入に支障を来したとして「我等持分之中⾈上場半艘」分を抵当にして金1両1分を村内の内山八郎衛門から借りた。兵衛門は船を所持している間に返済できたなら船引上場を戻すことと貸主の八郎右衛門に求めている。

(2)安永5年(1776)11月に村内の彦衛門が同様の理由で「我等持分之中野船引場壱艘半前之内半分」を⾦1両2分で八郎衛門に売渡した。

船を持つ漁師たちは砂浜にそれぞれに船の引き上げ場所を占有、所持していて、それが借金の抵当となったり、譲渡の対象となっていた。彦衛門は漁業経営を継続する意思があったのであろう船引き上げ場すべてを売るのではなく、半分を売るというのである。半分でも小型船での漁業に転換すれば続けられるのであろう。

いずれも庄屋の下で村の漁業行政を司る舟庄屋が奥書している。

なお舟の引あげ場は、田畑・屋敷地とは異なり、検地帳には登録されない。つまり年貢の徴収対象ではない。

乗船を約束する

(3)安永2年(1773)、水木村の弥七は金3分を八郎衛門から借りた。その代わりに八郎衛門の鰹船に2年間乗ることを約束した。この約束を破り、外の船に乗るようなことはしないと誓う。

(4)安永5年には水木村直吉が同様に八郎衛門から金1両2分を借り、代わりに2年間八郎右門の鰯船に乗ることを約束した。約束を果したなら他の船に乗ることは制約されない。

これらは一種の前貸し雇傭関係と言えようか。

なお(3)と(4)の証文の表題に「舟増手形」とある。舟増の読みと意味は不詳。

鰹と鰯の漁期

弥七と直吉は共に2年間縛られるが、金額に倍の開きがある。それは鰹と鰯の漁期の違いであろう。

鰹漁は茨城県の場合浜によって違いはあるが、およそ夏職(5月〜9月)に行われる。鰯漁は春職(正月〜5月)と秋職(9月〜12月)に行われる(杉山節ほか「茨城の漁業発達史」)。

ちなみに明治33年(1900)の『久慈町漁業組合規約』[2]によれば、鰹漁は陰暦の5月5日〜9月18日、鰯漁は1月2日〜5月4日と9月19日〜12月30日とされる。

弥七は夏、直吉は春と秋に縛られる。ともに一年を通じての乗船ではない。2年間縛られるにしても、年間で縛られる期間の違いがそのまま借用金額の違いとなっている。

史料

上記史料4点の全文はこちら 水木内山家史料

[註]

    • [1]文化4年(1807)成立の「水府志料」の水木村の条によれば、戸数は245戸。隣の森山村は38戸、大沼村は66戸。
    • [2]国立史料館蔵(茨城県立歴史館写真版による)