1960年代 日立市における工場誘致

目次

工場の誘致

1960年には日立港の後背地にあたる旧久慈町と旧多賀町に市の区画整理事業区域(215 ヘクタール)設定に対する国の認可がおり、62年に工事着手となり、ここに日立製作所の工場とその関連用地約66ヘクタールが確保された(大みか工場および臨海工場の建設はそれぞれ69・71年)。61年には旧豊浦町に日立電線の分工場用地約49ヘクタールが市によって取得され(工場建設は65年)、また60年から62年にかけての旧多賀町で相次いで日立製作所とその系列会社の工場・研究所の新増設がなされた。

以上のように高島市政(1945〜63年)はこれら日立製作所とその系列会社による工場の新増設に対応して用地の確保に力を注いだ。なかでも日立港後背地区画整理事業は戦災復興区画整理事業をしのぐ日立市にとって最大規模の事業であった。当時の『日立市報』(61年3月)は事業の重要性を次のように訴えている。見出しは「基幹都市をめざし 重要産業 工場を誘致 まち発展の飛躍台 工場用地の造成 工場用地一五万坪 市街地は三二万坪」。

基幹都市として雄飛するためには、いまある産業の拡充振興ばかりでなく、新しい産業工場の誘致をはかり、人口の増加をねらい、その人口を対象として住みよい市街地を整えることが必要です(日高地区の土地区画整理事業による日立電線KK日高分工場誘致も、これと同じ目的で行われました)。誘致をはかられる産業は、KK日立製作所でありその生産工場です。KK日立製作所では、新規工場建設のために、山口県柳枝市に三五万坪、岡山県三ツ島に三〇万坪の用地を確保したといわれます。KK日立製作所では、この区域の工場用地が今年いっぱいに確保できなければ、前の二地区のいづれかに新規工場の建設をはじめるということです。そうなるとこの区画整理事業を計画予定どおりに進めることができません。だからこの区域に、この新しい工場を建設できるよう計画どおりに用地を造成するということは、わたしたちのまちのこれからの発展を形づくるための第一条件として考えられ、また考えなければなりません。

日立市内に工場用地が確保できないのなら、他県に建設すると日立製作所は言うのである。これは戦前期に多賀工場用地確保が困難となった際にも地元町村に対して使われた手法である。かつ高島市長はかつて戦前期に日立製作所日立工場の総務部長を務めていた人物である。

工場設置奨励条例の施行と廃止

条例施行へ

用地の確保ばかりではない。日立港の完成にともない新規工場の立地が予想されるとして、進出企業への助成を図る目的で1959年(昭和34)4月市は工場設置奨励条例を施行した。条文は こちら 。内容は工場を新増設した企業にその工場分の固定資産税相当額を3年間奨励金として交付するというものである。

3年後の条例廃止

この条例は日立電線日高工場と日立製作所日立工場などに適用されたが、財政の逼迫を理由に3年後の62年9月末3年間の経過処置を設けて廃止された。市議会に廃止条例を提出する際の理由は「自治省からの指示、四囲の情勢並びに市財政事情から考えて、全国的に非常に変わってきておる現状にあり…一部経過処置を残して条例を廃止」

議会においていわゆる町方議員から「大幅な条例改正にすぎる。もっと漸進的は漸減的は処置をとるが、当然なものではなかったか。あまりにも日立市の市長以下が努力はしたでありましょうが、その努力のあとが見られない。上級官庁に言われると唯々諾々として地方自治の特色を発揮できないような立場にいたっては残念」との反対意見がだされた。しかし全会一致をもって廃止条例案は可決された。

この年まで日立電線は3年間で4800万円余、日立製作所は1200万円余(1年分のみ、2ヶ年分は未払い)の助成を受けたという。

条例廃止経過

この条例廃止の経過については次の新聞記事が詳しい。

   工場設置 奨励条例を廃止 日立市議会 財政緊迫のため
 日立市は工場設置奨励条例をことしいっぱいで廃止し、経過処置として向う三年間奨励金をこれまでの百%から三十%に減らすことになり、同条例の廃止条例を定例市議会に提案、二十九日の最終日に可決された。これは市財政が緊迫していること、安易な助成金の支出は適当でないと自治省から通達があり、このまま条例を存続させると起債などにも影響するとして廃止に踏み切ったもの。
 同市の奨励条例はさる三十四年四月一日から工場を新設または既存工場が増設した場合該当工場の固定資産税相当額を三年間奨励金として交付するという内容で実施した。これは実質的には三年間固定資産税を免除するもので、これまでに日立電線日高工場と日製日立工場が適用を受け、日高工場が三十四年から三年間で四千八百十八万円、日立工場が第一年度分として三十六年に千二百五十九万円、計六千七十七万円の奨励金を支払っている。
 このほか現在茨城電機、日立機材、日製山崎工場の三企業が適用申請を出しており、このまま条例を存続させるとこんご三年間に一億円以上の払い出しを行なわなければならず、市財政を細らせる原因になるわけ。しかし日立工場に対する奨励金が三十七、八年の二年分未払いとなっているので急に全廃するわけにはいかず、経過処置を設けたもので、新規の適用申請は十月三十一日までで打ち切ることになっており、向こう三年間で自然に全廃になることをねらいとしている。

『いはらき』新聞 1962年(昭和37)10月1日付

1961年度までに条例適用が完了したのは日立電線(株)日高工場、そして62年度以降の条例適用企業は、日立製作所日立工場、茨城電機工業(株)、日立機材工業(株)日立製作所山崎工場(日立化成)、日立セメント(株)、久慈電機製作所の6社であった。改正(廃止)案が可決された場合、経過処置により1961年度から65年度までの5年間でこれら企業6社への奨励金交付予定総額は、41,035,144円と試算された(「工場設置奨励条例に基く年次別交付予定表」)。

つまり日立製作所とその系列会社の4事業所が奨励金を手にしたことになる。

ちなみに条例適用を申請していた茨城電機工業は変圧器製造をしており、大沼町に工場をもち、日立製作所工業協同組合に加盟。日立機材工業は日立製作所の系列会社。久慈電機製作所は電気機器製造で石名坂町に工場をもつ。

岩戸景気へ

   日立 神武景気しのぐ好況*
   工員不足が一千名 職安で東北地方に人探し
工都日立の日製(日立、多賀、国分、絶縁物、水戸)、日立電線などの各工場は昨年ナベ底景気にあおられ、多賀、国分などの工場では大量の人員整理を行ったりしたが、ことしに入って活気をとりもどし、とくにここ七、八月は急激に上昇、一昨年の神武景気以上の景気となり、各工場とも行員の不足を来す有様で、日製では工員募集に大わらわ。
日立職安の調べによると日製各工場の募集人員は日製多賀工場の四〇〇名を筆頭に、水戸工場三〇〇名、国分、日立が各一〇〇名、日立電線が一〇〇名の計一、〇〇〇名の大量求人。このため同職安では工員の開拓に拍車をかけているが、肝心の地元日立市内には求職者は皆無に近く職安としても全くお手上げのかっこう。
そこで農家の二、三男を獲得することに方針をきめ、高萩市高岡地区で求職者相談会を開いたのを手はじめに順次各地で臨時相談所を開設、一方下請工場は日製など親会社の好景気によって熟練工を親工場にひっぱられてしまうためこの対策に腐心している。 この好況はここ当分続くものと見られるので日立職安では東北地方に出かけてこの工員不足を少しでもカバーする考えでいる。

『いはらき』新聞 1959年(昭和34)8月15日付

  1. [註]神武景気しのぐ好況:神武景気とは1954年(昭和29)から1957年にかけての日本経済の第二次世界大戦後はじめての本格的な好景気のこと。それをしのぐ好景気とはのちに岩戸景気とよばれる1958年〜61年の好景気をさす。「この三年をこえる大型好況のなかで、雇用吸収力の強い機械産業を中心に製造業の雇用が著しく増加し、三十三年〈1958〉から三十六年〈1961年〉までに、全産業の雇用者は二二八万人ふえ、なかでも製造業常用雇用指数は三〇%も増加した。一方、農林就業者は四六万人、自営業主・家族従業者は六二万人が減り、失業者も三三万人減少した。大企業の雇用が増加し、ついに三十六年ごろからは中小企業では人手不足が叫ばれるようになった。」(国史大辞典)とされる。ここに紹介した新聞記事に見られる日立市域での動きは『国史大辞典』の説明そのものである。