西行法師歌碑と白兎園宗瑞句碑の移設

目次


絵葉書「茨城縣多賀郡國分村西行法師併ニ五世白兎園宗瑞先生遺蹟」

  日立市郷土博物館編『日立の絵葉書紀行』より

絵葉書に写る石碑は、現在多賀市民プラザの敷地内にある西行の歌碑と白兎園宗瑞の句碑である。台座は石を積み、セメントで固めてあり、羽織袴姿の三人と役場の吏員らしき詰め襟服姿の一人が正面を向いて立っている。右端に「從是大字大久保古賀内…」と書かれた木柱らしきものが立つ。古賀内とは大久保小学校の北東一帯である。木柱の右手を道路が走る。旧国道であろう。

撮影場所は国分村大字大久保字申内の国道ぞい。ここは大字下孫小字後谷と河原子町小字十石後が接する地点。現在はよかっぺ通りから旧国道を50メートル南に入ると西側にミヨ洋菓子店があり、その手前に三階建てのビル(千石町1-4-26)がある。この写真は洋菓子店からこのビルに向けて撮られている[1]。撮影時期はこの地が国分村であった時代(1889〜1939年)としかわからない。

四度の移設

この二つの碑はその後都市計画の障碍物とされ、地元大久保の山本繁さんたちの手により大久保小学校へ一時避難する。その後多賀駅舎脇へと移される[1]

そして1977年日立南ロータリークラブの会合の席上、会員の山本繁さんは次のように提案する[2]

第1に常陸多賀駅南側便所の西側に建立されている五世白兎園宗瑞先生の句碑と西行法師の歌碑復元並に移築について、社会奉仕委員会の事業として実施を希望する。

翌78年春、数十メートル離れた下孫駅停車場紀年碑(多賀駅前交番)脇に移転が実現する。三度目の移転である。

そして四度目。2006年4月、日立多賀市民プラザ開設時に日立南ロータリークラブの手によって同プラザの前庭に移された。

西行歌碑の元の位置

1940年地理調査所測図 1/5万地形図

西行歌碑について江戸時代寛政年間の「石城浜街道道中記」に次のようにある[3]。下孫宿をでて助川宿に向かう途次のことである。

此駅[下孫宿]を出てゆなは箇[油繩子]との間に風穴、水穴と言あり、其分レ道に石を建て和歌一首を刻めり、其歌
 おほく国分と書りほの田面の蛙名のみして
 ねさめせよとて鳴声そうき
土俗いふ、昔西行法師此所にとまりて蛙の声を聞きてよめると言伝へたり

つまり西行歌碑は江戸時代には下孫と油繩子間の岩城海道沿いの水穴への分かれ道にあった。たしかに歌の左に「水あなみち」と刻まれている。天保十五年「諏訪村反別絵図」には、現在相馬碑が建っている辺りから北西の諏訪の集落に向う道が描かれており、また1940年の地理調査所の5万分の一地形図「日立」にも描かれている。

相馬碑の移設

そう言えば、下孫にあった相馬碑も転々として、地元の長山賢さんから土地の提供をうけて今の場所に落ちついたのだった。

江戸時代は下孫宿の北のはずれの岩城海道の東側にあったものが、その後所在不明となっていた。1960年都市計画幹線街路建設の際、字城之内に埋もれてあったものが掘り出され、砕かれそうになったのを市・県・工事業者によって国有地(諏訪村内一里塚跡)へ保存された[4]。その後そのかたわらに工場が建ち、移転を迫られ、多賀町4丁目3-18の現在地へ[5]

絵葉書の作成経緯

さて絵葉書にもどり、この写真が撮られ、絵葉書に仕立てられた事情を推測してみる。諏訪地内にあった西行の歌碑をなんらかの理由(例えば、6号国道の拡幅とかで邪魔になるとか)で大久保の申内(現千石町)に移し、もともとからこの場所にあった宗瑞の句碑の脇に並べた。この分かれ道からも北西に道をとると諏訪へいくことができるので、西行歌碑に刻まれた「水あなみち」にも矛盾しない。そのとき台座を新調し、記念に写真が撮られたのではないか。もちろん想像の域をでない。

─ 行政や企業から邪魔だとされ、しかしそのつど地元の人々によって守られてきた石碑に、この地の近代と伝統・歴史のせめぎあいを見ることができる。

[註]

  1.  本項は『会報 郷土ひたち』第65号に載せたもので、紙幅の都合で割愛したものを復元した。
  2. [1]山本博資編「ある村の物語」未定稿
  3. [2]山本繁「卓語」 日立南ロータリークラブ『週報』第4号(1977年7月26日)
  4. [3]古文書学習会編『道中記に見る江戸時代の日立地方』(日立市郷土博物館)
  5. [4]千葉忠也「後々のために 相馬碑の復元と移転までのいきさつ」『郷土ひたち』第2号(1960年10月)
  6. [5]史料 相馬碑伝説 http://saki-archives.com/2014/somahi.html

謝辞
山本博資さん並びに日立南ロータリークラブの古い週報を探しだしてくださった事務局の野村さんにお礼申上げます。