一九五五年頃の日立

清宮 烋子

初めて日立市の土をふんだのは一九五四年一二月二五日日曜午後のことです。この時は駅前からタクシーで神峰公園まであがりました。公園はまだよく整備されてなく 道路は砂利が敷いてあり、桜の苗木(二米位)が道に沿って植えられていました。晴れてはいましたが、流石山の上は風が冷たく早々におりて、市役所あたりで下車、新道と言われていた銀座通りを日立駅まで歩きました。驚いたことに、日立中の人がここに集っているのではないか、と思う位沢山の人達が歩いていました。

二度目は翌一九五五年五月八日(日)、この時は入居の決った県営浜の宮アパートに引越荷物を収めるためでした。五月一二日に結婚、実際に住民として入居したのは一六日の夕方でした。その頃の日立市は 多賀町と合併が二月一五日成立して 記念品として 国旗一式が全市民に配られ、少しのところで貰い損ねたと、あとから知りました。戦後一〇年経っていたとはいえ、祝日に国旗を出すのは余程余裕のある家のする事と思っていたので、日立に来て祝日に軒並みにはためく日の丸に驚きましたが、そういうことだったわけです。四月三〇日に定例市長選が終ったばかりで三期目の高島市長が決ったところでした。当時の生活はお米は配給でしたが、他のものは 大分自由に買えるようになっていました。でも、お肉と言えば牛肉、と思っていたのに、どこにも売っていなくて、豚肉のこま切れが 毎日何包みか供給所浜の宮売店に入るのを買う位でした。五〇匁で三五円だったと思います。それまで東京で商社に勤めていたので、失業保険をもらいに職安に通いました。六号国道と平和通の丁字路の北東あたりだったと思います。その年の九月、新聞で遺跡調査の記事を見つけ、伝手をたよって紹介してもらったのが、当時市社会教育主事をしておられた小川鉚一氏でした。滑川浜の横穴古墳や 浜の宮海岸近くの畑の中や、南高野貝塚などの調査に同行させてもらい、そのご縁で日立市役所の庶務課で日立市の地図をいただきました。その折庶務係長をしておられたのが現助役の船橋明氏で、東北大学法学部ご出身だったことから、清宮の叔父の話が出て気持ちがほぐれたことでした。今児童福祉課がある玄関の右側が庶務課だったと思います。その時 本当はケースワーカーのような仕事をしたいと話し、民生関係の方にも紹介されたように思いますが、資格もありませんしそのままになりました。小川氏に出会ったことから、八年後に 記念図書館開館に図書を寄贈したり、日立読書会を作ったり、という日立市の社会教育関係とのつながりが出来たと思います。

一九五六年一〇月一六日、助川町三一〇番地(広大な地域が同番地)平沢アパート一—九に引越し、一〇月三〇日長男を日製病院で出産、一二月二五日尼崎在住の父六〇歳でなくなる、という風に生活にふりまわされる時代がはじまります。この頃私の知識はラヂオ(四球スーパーのガーガーいうもの)と、貸本(月に七冊、文春・オール読物・ポピュラーサイエンス・婦人公論など)と新聞で、二宮金次郎のように子供を背中に活字を追っていました。


自宅のファイルを整理していたら、清宮さんの手書き原稿がでてきました。預かった経緯は忘れました。三十数年前の日立の現代史の会(清宮さん代表)の活動中のことかと思うが、はっきりしない。会編纂の『日立製作所と地域社会』、その連絡紙「通信」にも載っていない。また清宮さん編著の『日立・一九八八年・春』にもない。そんなわけでここに載せることにしました。清宮さんは2012年12月に84歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。(島崎和夫)