史料 望海炭鉱の閉山
1972年

茨城県高萩市大字上手綱に所在する望海炭礦は、1972年(昭和47)5月31日に閉山する。経営は望海炭礦(株)だが、実質は高萩炭礦(株)による。本史料は閉山過程をたどることのできるもので、1972年4月28日・5月19日付『いはらき』新聞の報道(炭礦の社会史研究会編『新聞記事みる茨城地域の炭礦と社会 昭和編3』p.273,274に収録)とあわせると、より詳細に知ることができる。

なお閉山後の望海炭礦は、露天掘りで続けられ、かつ閉山時の従業員は42人と少なく、退職者は高萩炭礦の系列企業が吸収できる見込みがあったため、史料2で示す茨城県の対応にも緊迫感はない。


史料1 望海炭礦閉山概要

史料について

①閉山□程
炭鉱名 望海炭鉱
鉱業権者 望海炭礦株式会社
代表者 代表取締役 菊池 仁
資本金 100万円
本 社 東京都千代田区丸の内3丁目3番1号
鉱業所 茨城県高萩市大字上手綱2802番地
概 要 事業着手  昭和21年11月3日
主要坑口  望海本坑
労務者数  42人
年間生産量 31,109トン
沿 革 大正8年 茨城採炭株式会社経営の下に本坑々口開坑に着手 昭和4年迄に至る全鉱区に亘り採掘す 其の後経済界の不況に伴い休止す
昭和15年 7月 磐城炭礦株式会社の鉱区を高萩炭礦株式会社買収す
昭和21年11月 高萩炭礦株式会社望海礦として再開発に着手
昭和22年10月 古賀春一、長谷川林三鉱業権者となる
昭和23年 4月 望海炭礦株式会社設立(資本金100万円) 代表取締役に古賀春一就任
昭和27年 2月 代表取締役に菊池一徳就任
昭和31年10月 代表取締役に菊池泰二郎就任
昭和39年 1月 代表取締役に菊池仁就任
②閉山に至る過程 
 閉山理由


 労使交渉経過

坑道が深部に延び 基磐水が増加し 坑内保安上及経済的採掘の限界を来たした
労働力の不足補充が不可能で 能率低下に依るため
昭和47年4月20日  会社側 閉山に関する申入を組合に提示
 〃 5月8日  会社側 労組に対し閉山に伴う各種条件提案
昭和47年5月10日  組合代議員会開催 組合側要求書提出
 〃  5月13日  組合臨時大会開催 閉山の会社提案を□刻的に承認 転職・退職条件について組合執行部に全権委任
 〃  5月14日  会社組合団体交渉に入り同日円満妥結す
 〃  5月15日  組合側閉山同意書を会社に提出
閉山交付金申請日 昭和47年4月20日
鉱業権消滅 鉱区放棄年月日  昭和47年7月24日
坑口閉鎖 坑口閉鎖年月日  昭和47年6月30日
閉山交付金決定日 昭和47年7月11日

史料2 望海炭鉱の閉山を報告する茨城県労政課内文書

史料について

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望海炭鉱の閉山について

 望海炭鉱は出水量が多いので、5月末で閉山し現在の場所で露天掘りをはじめる。

 望海炭鉱は高萩炭鉱グループの一炭鉱なので、従業員は ①同グループの系列会社 ②同グループの櫛形炭鉱 ③露天掘りで吸収する。

(参考)

社名   望海炭鉱株式会社
住所   東京都千代田区丸の内3−3−1
社長   菊池 仁
資本金  100万円
鉱業所  望海炭鉱鉱業所
住所   高萩市上手綱2802
所長   阿部正寿
従業員数  55人
労働組合  全国石炭鉱業労組望海支部(上部団体 同盟)
支部長  大内重
組合員数  39人(男子のみ)

参考文献