トップシークレットが投弾

奥住喜重

『市民と博物館』三一号を拝見し、御協力を感謝しております。おかげ様で半世紀近くたったいま、第五〇九混成群団がしていたことの全体がはっきりしてきました。広島と長崎に原子爆弾を投下したことは周知のことでしたが、そのための実戦訓練として、一万ポンド(四・五トン)の模擬原爆パンプキンを、九州を除いた本州と四国の、一都二府一五県に、合計四九発投下していました。

同模擬原爆パンプキンは、原爆と比較すれば模擬ですが、火薬の爆弾としては巨大なおそろしいものです。日立では海岸工場に一トン爆弾を投下されていますが、あの一トン爆弾一発の火薬量の優に四倍半の火薬が詰めてありました。ですから舞鶴では、唯一発で九七名もの方が亡くなったのです。日立の場合に被害が軽かったのは、偶然の幸いでした。

模擬原爆は、長崎に落された原爆ファットマンと同形同大に作ってありましたから、長さ三・五m、直径一・五m、全体はずんぐりと、頭の先も丸かったのです。その丸い頭に、接触信管を三つもつけて、どのような姿勢で落下しても一瞬に爆発しました。アメリカ側も、爆風爆弾であるとか、クレーターはときどきできるだけだなどと書いている位ですから、クレーターが意外に小さかったとしても不思議ではありません。

第五〇九混成群団の一五機のB29の中に、トップシークレットと呼ばれたのがありました。これは、八月六日広島の日には、万一の場合の予備機として硫黄島に待機していた機です。トップシークレットが訓練爆撃に出撃したのは、七月二〇日と二六日の二回で、二回とも新潟県の長岡にあった津上−安宅製作所が目標でした。二回とも目標は雲にかくれていて、二〇日のときはレーダー爆撃をしましたが、結果は確認できず、そして二六日、この日には長岡で投弾せずにひきかえして、太平洋上に去る直前に日立に投弾し、精銅所に落したと報告しました。これが山手工場わきに落下したものです。アメリカ側の資料によれば、投弾時刻は日本時間にして七月二六日の午前九時一五分となっています。

日立の場合、被害は軽微でしたが、それでも亡くなられた方がいられます。その方の御冥福をお祈りしながら、お名前やその時の御事情などが確定できればと願っております

『市民と博物館』第32号 1992年10月20日