史料 水戸領庄屋の東西論

雨宮端亭「みちくさ」より

水戸藩の郡奉行を務めた雨宮端亭の著書「みちくさ」上巻の追加の条に、伊勢参りから帰ったばかりの玉造村の庄屋から濃尾地方の様子を雨宮端亭が聞きとった記事がある。水戸領農村と対比しており、水戸領庄屋の認識が具体的に書き留められているので紹介する。著者の雨宮端亭と史料「みちくさ」については、こちらを参照。

最後の段落で、玉造村庄屋は、上方筋の肥料の用い方は学ぶ点もあるとしながら、水戸領では「農業に出るにも朝は日が出てから、…くたびれば昼寝もし、夕方は日の入る頃には帰って休み、そうして一生を終える。…上方筋のように農業出精すれば、皆々富有となるだろう。中国筋でこの地のように横着すれば、なかなか暮らしを続けることはできない。とするなら上方筋よりはこの国などは上等と言えるでしょう」と語る。

江戸時代、搾取にあえぎ、荒廃に呻吟する関東の村と農民という既成の観念からは、玉造村庄屋の楽観的態度あるいは現状肯定的な認識は新鮮に見えてくる。

もう一点。この玉造村庄屋の認識と発言を書き留めている雨宮端亭の態度である。肯定も否定、批判もしないのである。郡奉行つまり地方行政官からすれば、田畑からの収量が増えれば、年貢も増やすことができる。西国の農民同様に刻苦勉励せよと求めてもいいはずである。しかしそうした記述はない。民が望むならそれでいい、という態度のように思える。


凡例

[本文]

玉造村庄屋白井小衛門、伊勢参宮に登り近頃下りたる故、尾濃は勿論其近国土地よろしき事を尋しに、十一二取と云土地は此方の五ツ取位の土地と見ゆるなり。五ツ取の土地へ三雑石其外諸懸り物を加ふれば十一二取の年貢納と同じ程なり。上方筋は田は米、畑は畑米とて納め、外に諸懸り物なしと言へり。

百姓の体を見るに家居小さく奇麗に、衣服も常には麁服なれども、晴なる時はよき着服なりと云。農業の出精いう計りなし。朝は星をいただきて出、夕も星を見て帰り、田畑の端に少しの所にても何ぞ植付る也。

七歳八歳より十一二歳の子、蕗の薹を取りて串にさし旅人に買くれよとひたもの(ひたすら)すすむる故、旅中いらぬ物ながら一銭二銭の値にて求れば、傍なる子も買くれよと言ふ故、さほどは整へざる由言ヘば、泣出して頻に買わん事を乞ふ故、所の人に何故にかくの如きと問えば、其子どもは百姓又は村役人の子もあり。銭をとらずに帰れば、隣の子は銭をとり帰しに汝は銭をとらずとて親々の怒りに逢ふ故なりと言ふ。故残らず買たる事あり。

此辺(水戸領)などにて役人の子は勿論百姓の子とても一銭二銭を乞歩きなば、親々もいやしき乞食のさまなりとて罵り叱るべし。又農業に出るにも朝は日出候後、煙草吸ながら鍬打□□けて出、昼も草臥れば昼寝もしつ、夕は日の入る頃には帰り休みて、一生を終るなり。

是を上方筋の如く農業出精せば、皆々富有となるべし。中国筋にて此地の如く横着せば、中々暮らし続くる事ならず。さすれば上方筋よりは此国などは上国と言うべし、と言へり。

上方筋にては、前年何反何畝耕して食物不足すれば当年畝反を減じ、夫だけ肥やし助けを多くかくると云。此辺にては去年食物不足すれば当年は田地を増し、請作などして耕す故、肥助けも行届かず、耕作も土地広き故麁末になり、収納にはさほど過しせざるなり。是等は尤の事なりと語りき。