日立地方という呼称

ずいぶん前のことである。ある人から「日立地方ってあるんですか」と問われた。問いの意味がわからなかった。答えられなかった。自明のことだと思っていたからだ。しかし気になっていた。最近になってようやく答えがでた。「あります。ただし使用できる時期は限定されます。単に行政的な範囲をさすならば、日立市だと地方公共団体の名称とかぶることもあるので、日立市域となるのでしょうが」。

「日立市域」には近代的で無機質なイメージがある。たぶん社会学や地理学で使用されてきた用語である。地方を用いる場合は、茨城県内でいえば、たとえば真壁地方、結城地方、行方地方、下館地方という言い方はあるだろう。新治、筑波、行方、鹿島、那珂、久慈、真壁、結城などは古代からの地名である。範囲も確定している。中心地もある。ひとつの文化性、政治性、経済性を保った区域として古代(が大げさなら近世)から現代までの歴史をもつ。これらに「日立地方」を並列させるのはたしかになじまない。「日立地方ってあるんですか」の問いの意味はここにある。

「日立」という地名は、1889(明治22)年になって突如として現れるのである。歴史的にいえばきわめて新しい地名であり、由来もはっきりしない。その上「日立」は1889年になって現れたにしても、それが人口に膾炙されるのは、20世紀の日立鉱山と日立製作所両企業の名称によってである。言いかえれば、「日立」は日立鉱山と日立製作所がつくってきた都市の名称にほかならない(現代において「日立」は、日立製作所を指すようになっているが)。

「日立」をもって古代まで括るのは、日立市域の歴史や文化、経済を近代における日立鉱山と日立製作所の歴史によって古代にさかのぼって説明するということである。無理である。少なくとも1905年(明治38)の日立鉱山の創業以前の記述において「日立地方」は使用できない。ひとつに大字宮田と滑川で構成される「日立村」の範囲を日立地方と表記する意味はないからである。

日立鉱山・日立製作所の発展によって「日立地方」は成立し、拡大をつづけてきた。日立鉱山は日立村の宮田を出ることはなかったが、日立製作所は外縁を広げてきた。1930年代には宮田から助川へ。1940年代には1939年成立の多賀町を範囲とする大沼・下孫・河原子・成沢へ。そして1950年代後半からは久慈、小木津、川尻へと。それは1939年に成立した「日立市」の拡大でもあった。「日立地方」も拡大する。

くりかえすが、「日立地方」の出発は単に大字宮田と滑川からなる日立村からではない。たしかに地名としての「日立」は1889年の日立村にはじまるが、それから40年後の1939年に日立町と助川町との合併によって日立市が誕生したときに「日立地方」が成立すると考えたい。日立鉱山と日立製作所が地域の経済と政治・文化を左右する区域がはっきりとした姿をあらわすようになったときからである。

「日立地方」の範囲を構成する要素を規定するなら、おおまかに(1)日立鉱山と日立製作所及び関連企業の企業用地(工場・社宅など福利厚生用地)が立地する地域(2)両企業の従業員が居住する区域(3)企業及び従業員の消費活動がおよぶ区域、となろうか。もちろん制度としての市町村の範囲を超えるだろう。逆に日立市域であっても「日立地方」に含まれない地域もある、と考えたい。

愛知県豊田市はどうだろうか。挙母市だった市名が1959年に自動車会社名に変えられたのだが、豊田地方という呼称はあるのだろうか。

[追記]挙母市が豊田市となった1959年、日立市長選挙において、日鉱(日本鉱業・日立鉱山)と日製(日立製作所)がはげしい対立選挙をくりひろげ、日立製作所の勝利となった。