久慈郡 くじのこおり
常陸国風土記にある地名由来 日立篇

「常陸国風土記」に登場する久慈郡。この久慈の由来を次のように説明する。

古老ふるおきなへらく、「こほりよりみなみに、近く小さき丘有り。かたち鯨鯢くぢられり。倭武天皇やまとたけるのすめらみことりて久慈くじと名づけたまひき」といへり。

訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。

古老が「郡家ぐんけ (郡衙)の南に鯨の形に似た小さな丘がある。そのことから倭武天皇がくじ=久慈、と名づけられた」という。

クジという音(和語)にめでたい文字(漢字)の久と慈を宛てたのである。ラはどこへ行ったのか、などという茶々は入れない。ともかく風土記の編纂者が言うままに紹介する。

鯨の形に似た小さな丘はどこか

久慈の郡家は現在、常陸太田市の大里町と比定されている。鯨に似た小さな丘は、常陸太田市の商店街があるかつて佐竹氏の城があった台地とされている。ただし郡家からは東の方角にあたる。

風土記の記述どおりの南には、山田川と久慈川にはさまれた周囲の水田から30から40メートルの比高差のある台地がいくつか存在する。

常陸太田市島町の標高40メートルの台地もそのひとつ。大里から約3キロメートル。この島町には5世紀後半の築造とされる梵天山古墳がある。150メートルもある前方後円墳である。当時周囲は水田か川か低湿地。水に囲まれている。海にうかぶ鯨に見えないこともない。

本稿では、郡家の近くに鯨に似た台地があればよいのであって、クジラの丘探索への深入りはやめておきます。

[追記]信太郡の地名由来で「赤幡あかはたしだる国」から「信太国しだのくに」と言ったと、風土記逸文にある。こちらは「る」を省いている。地名(国名)を名づけるときの決まりごとがあったのだろうか。