史料 照山修理伝説 6 

福地六兵衛「内調覚」 天保12年(1841)

 宮田 福地家文書

原本には句読点はないが、読みやすくするためと編者の理解を示すために読点[、]を適宜入れた。

金沢村先庄屋照山又兵衛三代相勤候由、其已前ハ円井八郎衛門、北沢久次衛門、北沢藤衛門、北沢弥八郎、寛永之頃ハ寺山伝吉、跡ニ伝衛門ト成ル、組頭鴨志田蔵之介、同助川介左衛門、三人申合押願仕候歟、三人ノ内助左衛門ハ病死仕由、庄屋伝衛門並組頭蔵之介ハ御追放ニ相成候由、後ニ寺山伝衛門改名修理、組頭蔵之介改名豊後卜申候由、後役伜修理も相勤候由、新田御改帳ニ有之由、寺山修理ハ寛文三卯五月十八日相果候由、当四十年余已前子孫理兵衛ト申者石ヲ建、其砌村中相招念仏儀に被成、只今以修理念仏ト申伝候、石ハ長清寺山内ニ有、組頭役ハ照山、鴨志田、石川、円井、介川、樫村、綿引、佐藤、豊田等ニテ相勤候由

[現代語訳]

金沢村の先の庄屋は照山又兵衛が3代にわたって勤めたという。それ以前は、円井八郎衛門、北沢久次衛門、北沢藤衛門、北沢弥八郎が勤め、寛永の頃に寺山伝吉(その後伝衛門と改名)、組頭鴨志田蔵之介、同助川介左衛門の3人は申し合わせて押願をしたためか、3人の内助左衛門は病死したといい、庄屋伝衛門と組頭蔵之介は追放になったという。後に寺山伝衛門は修理と改名し、組頭蔵之介は豊後と改名したという。後役に倅の修理も勤めたという。新田改帳に記載されているという。寺山修理は寛文3[1663]5月18日に死んだという。今から40年余以前子孫の理兵衛という者が墓石を建て、そのとき村中を招いて念仏講を開いた。今修理念仏と言い伝えている。墓石は長清寺の山内にある。組頭役は照山、鴨志田、石川、円井、介川、樫村、綿引、佐藤、豊田等が勤めてきたという。

福地六兵衛と内調覚
宮田村の天保検地の際の郷役人。宮田村の庄屋。「内調覚」は検地に先立ち事前調査が行われ、それを六兵衛が記録したもの。

六兵衛は担当の村において歴代村役人を調査し、書き上げている。金沢村においても同様に調査し、そのなかに庄屋修理の「押願」が記録されたものである。修理の姓を寺山としている。長清寺(現在は長福寺)にある修理の墓石(寛文3年5月18日)には「照山氏修理墓」とある。福地六兵衛の単純な誤記とも思えない。理由はわからない。