史料 照山修理伝説 3

高倉逸斎「田制考証」 文化10年(1813)

『近世地方経済史料』第8巻所収

御縄入後松岡領百姓共山林等へ集合騒敷よし注進有之由、野澤筆記に見へたり、既縄つまり候迚金澤村百姓とも強訴いたし、頭取三人に右村にて御仕置被仰付、其後御縄打直しに成候由申傳へ候由、右村之御検地帳正保四亥年なり、寄々松岡領之内検地之間合試候に悉く縄つまりも見ゆ、麁略の打かたなり。

[現代語訳]

検地後松岡領の百姓たちが山林へ集合し、騒がしいので報告があった、と「野沢筆記」*に見える。すでに検地がなされ、石高が増えたとして、金沢村の百姓らが強訴した。中心となった3人に金沢村で処罰することと命令があった。その後検地のやり直しがなされたとの言い伝えがある。金沢村の検地帳は正保4年(1647)のものである。松岡領の検地のしかたを試してみるとことごとく縄つまりに見える(石高が増えている)。粗略な打ち方である。
  *野沢筆記とは、検地奉行野沢太郎左衛門の記録であろうか。

高倉逸斎
実名は胤明、通称は宇一衛門のち甚次平、逸斎は号。文化2年(1805)水戸藩に出仕、文政2年(1819)致仕。天保2年(1831)82歳で没。

[全文紹介]

寛永検地の3人の奉行、野沢太郎左衛門・跡部太郎兵衛・川村角介のうち野沢と跡部の二人が検地終了後の正保元年(1643)4月29日に切腹を命じられたこと、およびその理由を逸斎は書いている。ところが逸斎ではない人物が、逸斎の推測には疑問があるとして「張り紙」をしてその理由を書いた。上に抜きだした金沢村百姓の強訴事件は、この張り紙に記述されたものである。つまり「金沢村百姓とも強訴」と書いたのは、逸斎ではないのである。

「張り紙」をした人物が、野沢と跡部の二人の奉行が処罰されたのは金沢村百姓の強訴事件が原因ではないか、と言うのである。

貼紙して「金沢村百姓とも強訴いたし」と書いた人物とは誰か。あわせて金沢村百姓の強訴事件を文脈の中に位置づける必要があると思われるので、ここに全文を紹介する。

役名相續志御郡奉行の部に、高三百石御代官より
                   野澤太郎左衛門
                   某同三百石
  跡部彦九郎之惣領也といふ、西山過去帳にも見ゆと云々
  跡部太郎兵衛圓正、同三百石(役義未詳、此人大閤検地之節
  大野修理に属し検地の事に預りしといふ説有、尤成説也、)
                   川村角介正直
右三人寛永十八年蒙命水戸領檢地する所、「正保四亥御引替地檢地帳に此人姓名有、併無印也といふ、」河村角介殿斗宜百石御加増四百石となり、御町奉行野澤太郎左衛門跡部太郎兵衛執計不宜故正保元甲申四月廿九日兩人共に切腹被仰付と云々。
胤明按に野澤跡部之兩子切腹被仰付候は、右寛永十八巳御檢地之節案内之庄屋組頭起請文前書ケ條之内に、隣郷境目之儀當村之田畑分不殘御案内可仕候、又餘村之田畑を當村之引入に仕申間敷事と云々、然るに南郡は跡部太郎兵衛、中郡は川村角介、北郡は野澤太郎左衛門にて、此時三郡也、南郡北郡之内既に右宿村之地古宿村を離れて吉田村之地に孕れて古宿の畠方有、又久慈郡良子村之田方平山村を隔て東河内村に有、是則右之起請文書に背けり、是等之類委細尋なは餘郷も有るへし、果して此事に因て罪科せられし成へし。
(張り紙)
此考疑し、往古町屋良子平山東河内入四間笹目赤根は一村也、寛永十八巳年七ケ村に分る、人を以高を引分たるなり、西河内水瀬も寛永十八巳年以前は一村にて西河内の地を隔て水瀬の地あり、上下古内上下青山(以上四ケ村元増井組)臺渡圷渡之類、寛永十八巳年之分け郷にて田畑入念なり、那珂郡之内菅谷村之地田彦を隔て高場之内にあると聞、往昔田彦は菅谷の新田なるよし、たとへ持主願候共他村之土地を打込候事は、其頃之人氣合點致間敷候、古宿も吉田の分け郷なるべし、さすれば野澤跡部罪科せられしは、飛地の分けには有るまじ、御繩入後松岡領百姓共山林等へ集合騒敷よし注進有之由、野澤筆記に見へたり、既縄つまり候迚金澤村百姓とも強訴いたし頭取三人に右村にて御仕置被仰付、其後御繩打直しに成候由申傳へ候由、右村之御検地帳正保四亥年なり、寄々松岡領之内検地之間合試候に悉く縄つまりも見ゆ、麁略の打かたなり、若し夫れ等に仍て罪科せられし事か。
又案に、右の如く他村之地を其村の地に検地せしめしは、縦へは古宿村之某なる百姓田畠を多く持ち、飛越て吉田の地に持添たる畠方之年貢を、吉田村へ別納する事を六ケ敷思ひて、御検地方之役人へ願ひ居村之高に御検地を請し成べし。
又云、今の鳥子組は、其先四郡之時は青柳より那珂郡之地多分武茂組と稱せり、今の増井組も寛永前後武茂に属し中郡と稱せし地にして、川村角介の支配所也、粗聞に此支配には古宿良子等之如きはね地の検地はなしと聞及へり、是則起請文之趣を守れる也、此外にも取扱の能き事有りて、川村氏は御加増之上町奉行に轉役せし成べし、何れ後考を待つ而已。

町奉行の野沢と跡部の両人が切腹を命じられた理由ついて逸斎の推測は疑問である、金沢村の強訴事件が原因だ、と貼紙までして照山修理の事件を挿入したのは誰か。『近世地方経済史料』第8巻の凡例によれば「田制考証」には「藤田幽谷の意見などを挿記しあり」とあるので、藤田幽谷と考えてよいだろう。