大窪村と助川村の境論

「水府志料」に慶長14年5月19日付の大窪(大久保)村と助川(介川)村の境界紛争の内済状の写が収録されている。これについてはすでに笹岡明が「鉄火起請」に焦点をあて成立期の水戸藩の権力基盤の不安定さについて「慶長十四年の鉄火起請」(『会報郷土ひたち』第43号)で紹介し、また「水戸藩成立期の村落間紛争と鉄火」(『郷土ひたち』第61号)で詳細に検討している。

ここではこの二つの村の境界争いとその背後にあるものについて触れようと思う。

テクストは「水府志料」の瀧平新田の条にある「介川大久保金山問答ニ付申手形之事」である。ちなみにこの内済証文は二つの本に活字化されている。ひとつは『茨城県史料 近世地誌編』(1968年)、もうひとつは『茨城県史料 中世編2』(1974年)である。どちらをテクストとするか悩ましいところである。

読み、漢字の用いかた、句読点の入れかたがそれぞれに異なるが、注釈があり、読みについても先行の『近世地誌編』を参考にしたにちがいない『中世編2』を用いることとする。しかし『中世編2』での表題は「介川・大久保・金山問答ニ付申手形之事」となっている。近世地誌編では並列点・はないが、『中世編2』は並列点・を用いている。介川と大久保の間、大久保と金山の間の2ヵ所に。これでは介川と大久保と金山が同格で、三つの村があるように読みとれる。誤りである。並列点・を入れるなら、介川と大久保の間にだけである。つまりこの手形は助川村と大久保村の境にある金山の帰属をめぐる境界争いの内済証文なのである。

次に『中世編2』所収の史料をかかげる。〔 〕と[ ]は中世編2の編者の註。

 介川・大久保・金山問答ニ付申定手形之事

  慶長十四年〔己〕酉        〔大〕窪村  采 女
    五月九日              又衛門
                      けん助
   近藤市衛門殿             修 理
   忍穂武助殿              仙 助
   望月与五衛門殿       諏訪村  三衛門
   永田五郎太夫殿            清次郎
     右御奉行中            林 藏

金山と書いて地名ではカナヤマと読み、それは金が採掘される場所である。つまりこの境界争いは金山こがねやまの帰属をめぐる争いであることもはっきりしている。

内済の結果、諏訪川(明治以後、鮎川と改称)を境に、金山は助川村に属することとなった。現在、助川町に金山かなやまという小字があり、集落がある。この地の南方の尾根に金山かなやま百観音がある。

幕府の裁許によらず内済で解決したが、それは「杉室様・普済寺様」の「御取扱」によってであるという。杉室様とは、助川村の北隣の宮田村にある山直小野崎氏の菩提寺である曹洞宗天童山大雄院のことである。末寺をかかえる有力寺院である。一方、普済寺も大久保村にあった真言宗の有力寺院である(のちに河原子村から油繩子村に移る。いずれも諏訪川の南の地である)。大久保村は慶長7年の佐竹氏の秋田移封まで佐竹氏の有力家臣であった大窪氏の根拠地であった。つまり介川村に影響力をもつ大雄院と大久保村に影響力をもつ普済寺が仲裁したのである。江戸時代、有力寺院が地域紛争の仲裁者の役割を果たすことはめずらしくない。

これらのことは諏訪川を境に北は佐竹氏家臣でありながら独立性の高かった山直小野崎氏が支配していた地域、南は佐竹氏重臣の大窪氏が影響力をもっていた地域だったことを意味している。

それにしても大窪村の大窪采女らは幕府代官頭(関東郡代)伊奈忠次の裁許を拒否したのである。幕府への抵抗の姿勢は慶長7年の大窪城主大窪久光の反乱に通ずるものがある。