柴田新兵衛

生年不詳。天保7年(1836)9月24日歿。常陸国多賀郡会瀬村(茨城県日立市)の人。実名昌常、新兵衛は通称。立原杏所の弟子という。父は柴田伝左衛門で、会瀬村の船主。弟は長崎で西洋医学を学び種痘の普及に力を尽くした柴田方庵である。

なにゆえに公儀は異国人を仇のごとく扱うや

鈴木彰『幕末の日立』(1983年)は、江戸後期の文政年間、日立市域の沖合に現れる異国船と異国人について、柴田新兵衛の言を次のように紹介している(p.21)。時代をさらに特定するならば、文政7年(1824)イギリスの捕鯨船員が水戸領大津浜へ上陸したときである。

異国人が漁師を待遇することは、決して隔心なき故、漁師共は異国人の親切をとり、沖合荒れたる時は、彼の船に凌ぎ、炎天の節は冷水を与え、病者には薬を与えるなど、鯨をとるばかりにて、少しも我々に妨げなし、何故に公儀にては、異国人を仇の如く扱うや。

と史料を引用し、次のように解説している。

「このような進歩的な考えからすれば、いたずらに世をさわがしたともいえるであろう。しかし当時の一般国民が抱いていた対外危機感こそ、日本民族精神をふるいおこし、また世界情勢への探求をひきおこし、やがて日本をして、開国にふみきる準備をさせたのであるとも言えるのではあるまいか」。

『幕末の日立』はこの記事の出典を「雑誌『いはらき』第七号」としている。出典を探したが、見つからなかった。あきらめていたところ『通航一覧』(巻255。嘉永3年に幕府によって編修された。巻末の「史料について」を参照)にあることを知った。次のようにある。なお『通航一覧』のこの記事の出所は、文末の割註にあるように「甲子夜話」と「視聴草」である。

異國人漁師を撫䘏ぶじゆつする事、舶中の人を取扱ふと同様にて、少しも隔心なき故、此節に相成候ては、漁師共申候は、異國人は至て深切なるもの故、吾々沖合にて風雨にあひ難儀の節は、彼船にて相凌き、炎天の節は冷水をあたへ、病気の節は藥をあたへ、大に力を得候事多く、吾等の力に及ひ兼候鯨魚を捕るのみにて、漁獵の妨に少しも不相成候を、何故に公儀にては異國人を讎敵しゆうてきの如く御扱ひ被成候やなと、申候者も有之由、新兵衛申聞嘆息仕候〔割註:甲子夜話、視聴草〕

「何故に公儀にては異國人を讎敵の如く御扱ひ被成候や」とは『幕末の日立』が言うような新兵衛一人の考えではなかった。異国人と交渉をもった漁師たちの疑問なのである。新兵衛は同じように感じ、代弁もしたのである。

また『幕末の日立』は、柴田新兵衛を立原杏所の弟子というが(p.21)、出典は示されていない。ところが『甲子夜話』巻六十(平凡社東洋文庫『甲子夜話 4』p.230)に次のようにある。

右致上船候漁師共え、毎一人に板に摺候書面一枚と銀銭を柴田新兵衛〔伝左衛門忰にて小生門人に候〕より内々相贈越し、小生も致所持候。

〔 〕内はこの文章を記した人物「小生」の註である。会瀬浜の漁師が異国人から印刷物と銀銭をもらった。それらを柴田新兵衛が贈ってきたので、「小生」も持っていると言うのである。「小生」とはだれか。

この文は松浦静山に「前に常府の浜海に異船来ることを云ふ。後朝川(善庵)が口頭に所聞あり。又その記文を得」(『甲子夜話 4』p.228)と書かせたように、朝川善庵が入手した記録を静山が写しとったものである。朝川がだれからこの記録をもらったのだろうか。この人物が「小生」であり、柴田新兵衛の師である。立原杏所へあと一歩か。

新兵衛の師を『幕末の日立』が言うように、立原杏所とするならば、杏所と善庵は知りあいでなければならないが、それはありえることである。十分ありえる。せまい学者・文人世界のこと。さらに新兵衛の弟である方庵が江戸遊学の際、師匠の紹介の労をとったのが杏所の父立原翠軒。翠軒は大窪詩仏に依頼し、詩仏は善庵を紹介したこと(大森林造『大窪詩仏ノート』p.127)も状況証拠となろうか。つまり新兵衛が師の杏所に弟方庵の江戸の儒学の師を依頼した。杏所は父の翠軒に相談した。江戸にいた翠軒は同郷の大窪詩仏に依頼した。詩仏は親しい友人である朝川善庵を紹介した。このような流れを想像してもゆるされるだろう。

新兵衛の師の件はともかく、『幕末のひたち』が紹介する記事は、会瀬浜の漁師たちひいては常陸の漁師たちの異国人を見る目を伝える貴重なものである。村の知識階層である柴田新兵衛は漁師たちのまなざしに共感している。「何故に公儀(水戸藩)にては異國人を讎敵の如く御扱ひ被成候やなと、申候者も有之由、新兵衛申聞、嘆息仕候」(なぜに公儀は異国人を仇のごとく扱うのか。そんなことを言う者がいると、新兵衛は私、立原杏所にそう語り、溜息をついた)は新兵衛の人物像を彷彿とさせる。さらに新兵衛たちの受けとめ方を伝えようと記録にとどめる朝川善庵や松浦静山、幕府の学者たちの均衡のとれた態度にも驚かされる。そればかりではない。幕府にとって十分検討に値する意見であったのであろう。

イギリスの捕鯨船員が水戸領大津浜へ上陸する事件が起きたとき、藤田幽谷・東湖父子の『回天詩史』あるいは会沢安の「諳夷問答」にあるような攘夷をふりかざす水戸藩士たちの受けとりかたとの大きな違いをみることができる。水戸藩がこののち時代に逆行して攘夷一色に染まっていくが、その岐路は文政年間のこの事件にあったと言えよう。

柴田新兵衛は『甲子夜話』の別の箇所にも登場する。これについては稿をあらためて紹介しようと思う。新兵衛の墓も見ていない。探しあてることができたなら追加しましょう。

史料について